4/6 「皆の僕に」 三浦 遙 聖句:マタイ20:20-28
イエスが三度目の受難を予告された後、ゼベダイの子たちの母が、息子たちをイエスの御国で高い地位に就けてほしいと願い出ます。マルコでは本人たちが願いますが、マタイでは母を通じて願うことで、弟子たちの権威を配慮した形になっています。しかしイエスは母にではなく、弟子たち本人に向かって、自分が受ける受難の杯を飲むことができるかと問いかけます。「御国で」と語られるように、弟子たちは主の栄光が近づいているという期待を抱いていましたが、ここにはその期待と現実のギャップが現れています。弟子たちは「できます」と即答しますが、それはイエスの道の本質を理解していないことを表しています。
それでもイエスは、彼らの無理解や将来の裏切りを見越しながら、教会を導く者として教えを語られます。「二人のことで他の弟子たちが腹を立てた」と記されているように、弟子たちの間でも序列意識が存在していました。そしてそのような意識は、初期の教会においても、ペトロやパウロといった指導者たちの間での立場をめぐる議論の中に現れていきます。そうした世俗的な権威構造に対し、イエスは逆説的に「偉くなりたい者は、皆に仕える者となりなさい」と教えます。三度にわたって受難を予告し、イエスご自身がこの世に来た目的は、人々の罪を贖い、仕える者として歩むことでした。そこに支配ではなく、仕えることを通じた愛と使命が表れているのです。
イエスは、弱さを抱え裏切ることさえある弟子たちに対しても、最終的には仕える者として教会を導くよう願われました。その願いは、今を生きる私たちにも向けられています。私たちの教会にも、いまだ権威的な価値観が残っているかもしれません。私自身もそのことに心を探られます。それでも、イエスが生涯を通して仕える者として歩まれたその深い愛を思い起こしながら、私たちもまた、重荷を課すのではなく、共に担い支え合う歩みをしていきたいと願います。
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