3/30 「礼拝後のわたし達」 三浦 遙 聖句:マタイ17:1-13
マタイ福音書では、イエスが救い主であることの根拠として、旧約聖書の引用とその成就がたびたび用いられています。その最も象徴的な出来事の一つとして、今回の場面が描かれています。イエスは、弟子の中でも中心的な存在であったペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴い、高い山に登られました。すると、イエスの姿が変わり、さらにモーセとエリヤが現れました。これまでの旧約の成就とは異なり、律法を象徴するモーセ、預言者を代表するエリヤとイエスが語り合うことで、イエスがそれらを超えた存在であることが明確に示されたのです。
この光景を目の当たりにしたペトロは、「ここに小屋を建てましょう」と提案しました。他の福音書では「自分でも何を言っているのか分からなかった」と記されていますが、突然の超常的な出来事に混乱していたのでしょう。しかし、この提案は単なる困惑から出たものではなく、「神の栄光を地上に留めておきたい」という人間的な欲望を表しているとも言えます。マタイ福音書では、弟子たちの弱さが強調されますが、ペトロの姿を通して、神の御心ではなく自己中心的な願いにとらわれやすい人間の性質が浮き彫りにされています。
その時、光の中から「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という神の声が響きました。そして、気がつくとイエスだけがそこにおられ、弟子たちは何事もなかったかのように元の状態に戻っていました。イエスはこの出来事を復活の時まで誰にも話さないようにと命じ、彼らと共に山を下りていかれました。
旧約の時代から、礼拝や祈りはしばしば高い山で行われてきました。そう考えると、山を下る弟子たちの姿は、礼拝を終えて日常へと戻る私たちの姿とも重なります。神の栄光や御心は時に私たちには見えづらいかもしれません。しかし、私たちはイエスが神の子であり、主なる神が一人ひとりを愛し、見守ってくださることを信じています。たとえ恐れや困難に打ちひしがれることがあっても、目には見えない神が、救い主イエス・キリストが、私たちの手を取り、「恐れるな、起きなさい」と立ち上がらせてくださることを信じています。
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