7/27 「神との繋がり」 三浦 遙  聖句:使徒19:11-20

 7月の第2日曜日は部落解放祈りの日でした。私たちは「争いがなくなりますように」「平和になりますように」「差別がなくなりますように」と祈ります。しかし、そう祈る私たち自身の内に争いはないでしょうか。差別からの解放を願う私たちが、差別をしている側である可能性はないでしょうか。祈る私たちは、どんな立場で、どんな存在として祈っているのかということが問われているのです。

 使徒言行録19章11-20節では、パウロの第三回宣教旅行の様子が描かれています。神様はパウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われ、パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けを病人にあてるだけで病気が癒され、悪霊が出ていくほどでした。これを見たユダヤ人の祈祷師たちが、「パウロが宣べているイエスによってお前たちに命じる」と言って悪霊を追い払おうとします。しかし悪霊は「イエスやパウロは知っている。だが一体お前たちは何者だ」と言い、彼らを追い払ってしまうのです。この祈祷師たちは占い師のような存在で、神様の力を勝手に借りて自分たちが強くなろうとしていました。十戒にも「神の名をみだりに唱えてはならない」とありますが、これは自分たちのためだけに神様を用いることを禁じるものでした。祈祷師たちはイエス様を「知らない」のに、利己的な思いでイエスの名を用いました。彼らは神様との関係を断ち切り、信仰心もなく、身勝手に神様の栄光を持ち出そうとしたのです。

 神様への祈りは請求するものではなく、頂いたものに対する感謝を表すものです。いつでも私たちに与えられているものは、神様からの愛ある贈り物なのです。それらをいつも頂いているにも関わらず、自身の力のみで生きていると思い込むことは傲慢な姿と言えるでしょう。私たちは毎週の礼拝と主にある交わりを通して、自身と信仰を見つめ直しつつ歩んでいます。神様と繋がりつつ、神様を信頼し、委ねる中で愛ある交わりを成していくこと、毎日笑顔で喜びと希望に溢れて平和に生きることを願っています。いつも神様が隣を歩んでくださることを思い起こしつつ、神様と手を繋ぐように歩んでいきたいと思います。

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