4/13 「待っている」 三浦 遙 聖句:マタイ27:32-56
イエスが受けられた苦しみは私達には想像もつかないほどに痛々しいものです。イエスの十字架の物語はその生涯の意味、使命を表すもの。それは私達の罪を背負うことだけではなく、私達の痛みに共感するためでありました。イエスの受難はこの世で受けうる最も深い苦しみです。弟子達に裏切られ、群衆に蔑まれ、神にすら沈黙される。十字架とそこに至るまでの肉体的な痛みはもちろん、拒絶と沈黙という目に見えない痛みでもあったのです。
しかし、それまでの歩みにおいて示されていたように、イエスがその身を犠牲にしなければならないほど、神と人との関係には大きな溝があったともいえます。しかし、その溝はイエスの贖いの死を通して取り払われたことがはっきりと描かれていました。イエスが大声で叫び、息を引き取れた際、神殿の垂れ幕が裂け、眠りについていた聖なる者の体が生き返ったとありました。様々な解釈がありますが、人々が神殿という目に見える場所に神を留めていたところから、その垂れ幕が裂け、隔たりが取り払われた。全世界どこであっても誰であっても主を礼拝出来るようになったのです。また、イエス自身の復活を通して、死の壁すらも取り払っていく奇跡が示されていくのです。
この隔たりを取り去る救いの業はそれだけで完成されるものではありません。たとえ罪が赦され、隔たりが無くなっても、私達人間が神と共に歩み、差し伸べられたものに応えていかなければならない。イエスを拒絶し、沈黙したようにではなく、今の私達も招きに応えていくことでようやく救いが示されていくのです。
イエスの受けられた痛みは、今の世にある痛みでもあります。争いや暴力による痛み、孤独や拒絶による痛みを今まさに受けられている人々がいる。イエスがその人々のために、苦しむ私達のためにその身を捧げられた。今一度、この受難の出来事を通してイエスと神の限りのない愛を思い起こし、感謝を持って応え、その献身に倣っていくことが出来ますように。
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