8/3 「受け入れ合う平和」 三浦 遙 聖句:ロマ9:19-28
平和聖日を迎える度に「今は平和だろうか」と問わざるを得ません。世間には痛々しい情報が溢れ、怒りと悲しみに満ちています。私たちの弱さ故に「主よ、何故?」と問うこともあるでしょう。神の御心を人間が完全に理解することはできません。いかに不公平で不条理に思える事柄であっても、その内に神の計画が進められているのです。ローマの信徒への手紙9章では、パウロが神の矛盾について問われた際、「神に口答えするな」と答えています。しかし、これは冷たい拒絶ではありません。パウロは、私たちという「器」をどのように用いるかは神に委ねられており、神はその力をもって反する人々を滅ぼすのではなく、迷い出た人を憐れみを持って導こうとされると示しています。
創世記のハガルの物語では、追放されたハガルとイシュマエルを神が荒れ野で生かし、別の道へと導かれました。本来であれば神との関わりを閉ざしてしまった人々を、神は滅ぼされるはずでしたが、その人々すらも憐れみ、命を約束されるのです。パウロがエフェソの信徒への手紙で語ったように、「キリストはわたしたちの平和であり、二つのものを一つにし、敵意という隔ての壁を取り壊された」のです。
私たちの社会には、不要と罵られ、無価値だと追いやられている人々がいます。現代社会でも、自然災害や人の悪意による理不尽な出来事が起こります。しかし、神は「自分の民でないものをわたしの民と呼び、愛されなかったものを愛されたものと呼ぶ」と約束されています。社会から追い出され、仲間外れにされた人々が、その場所であっても神の子として祝福されていくのです。同様に私たちも日常の中で様々な理不尽を抱きます。ですが、目に見える場面だけでは悪いこととして映る時でも、その裏で神が良いことのために備えてくださっていると信じることができます。
パウロは、これまでの辛いことも悲しいことも、全てが神の豊かな愛と恵みの中にあると語りました。神が私たち一人一人を自分の民として受け入れてくださる時、私たちも神がそうしてくださるように、多くの人を家族として受け入れていくことができるはずです。排除や対立ではなく、隔ての壁を取り壊し、全てを憐れみの器として用いてくださる神。その神様の示される「受け入れ合う平和」の希望を抱いて歩んでいきましょう。
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