12/14 「夜明けはまだか」 三浦 遙 牧師 聖句:イザ40:1-11
預言者イザヤは国が滅ぼされ、捕虜として捉えられたイスラエル民族に「苦役の時は満ち、咎は贖われた。」と告げ知らせました。これはとても大切な言葉です。そもそも国が滅びたのも、捕虜として捉えられたのも、人々が神様から遠く離れ、神を蔑ろにしてしまったからです。しかし、この70年の捕囚は確かにイスラエル民族の罪と咎によるものですが、決して苦しみを与えるものではなく、また「神が民を見捨てた期間」でもなく、「もう一度民を生かし、立て直すために必要な時間」として描かれていくのです。
この「贖われた」という言葉は、罪と咎が赦され、新たに歩み出していく合図でもあるのでした。そして、「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」と主なる神は命じています。主の道から離れてしまった人々が、その道に導かれるだけでなく、その主の道が後の人々にとってより広く、通りやすいものとなるように努めなさいと示されるのです。その道はどちらかというと、人が歩き続けることによって徐々に見えてくる、踏みしめられた獣道のようなものだったり、どっちに進めばよいか分からなくなる荒れ地における、道しるべのような「しるし」を作る働きなのかもしれません。
神は、バビロン捕囚という苦役を与えました。それは当時の人々にとってまさに神様からの呪いのように感じられたかもしれません。しかし、罪を犯した人々をただの赦すだけでなく、その後の役割を示されたうえで、あなた方が必要だと、あなた方がこれからわたしへの道を備え、わたしの祝福を力強く宣べ伝えるのだと告げています。神が求めるのは、神を信じる人々が世界中に溢れ、その人々を通して神の祝福が世界中に満ち、地上に神の国が訪れることです。それはまさに、この3本目のアドベントのロウソクに示される「喜びの訪れ」であると思わされます。暗く、辛い歩みの中に、一筋の輝かしい光が示されていく。苦しみや悲しみが喜びへと変えられていく瞬間が与えられていくのです。神様は、どのような時であっても、そして「夜明けはまだか」と、苦しみや悲しみの歩みの只中であっても、必ず希望と喜びを示してくださることが今回の箇所でも、そしてクリスマスの物語においても力強く描かれていくのです。どうかそのことを思い起こし、希望を胸に2025年の歩みを進んでいきたいと願います。
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