12/7 「言葉が肉となる」 三浦 遙 牧師 聖句:エレ36:1-10
ダビデが築いたイスラエルの国は、後に二つの国に分裂し、果てには大国に滅ぼされてしまいます。その一つである南ユダの王たちは、大国に取り入るためその宗教の偶像を建て、主なる神様を軽んじてしまいました。そんな混沌とした時代に、神の言葉を預かり伝える預言者としてエレミヤは働きかけていきます。
冒頭で神はエレミヤに「これまでの私の言葉を巻物に書き記せ」と命じます。そして、書記官バルクの援助のもと、エレミヤは語られた神の言葉を書に書き起こすのでした。それは当時力を持っていたバビロニア帝国がいよいよエジプトに勝利し、南ユダの滅亡が目前と迫る時でもあった中、それでも神は人々を裁くのではなく、悔い改めと救いに導くために、再び御言葉を語りかけようとされたのです。
注目したいのは、書記官バルクがそのエレミヤの指示に忠実に従ったことです。国が滅亡する危機的な状況で、救いの道なんてあり得ないとすら思える中、バルクはただ主なる神の「悔い改めよ」という言葉を、一切疑わずに人々に語りかけていくのです。そこには主なる神とエレミヤへの絶対的な信頼と信仰が描かれているように思わされます。結果、これらの言葉を聞いた南ユダの人々、特に王と指導的立場にあった人々がその言葉を退けたことが、国全体の方向を決定づけ、南ユダはバビロニア帝国に侵略され、捕虜として遠い地にて70年もの間、捕えられてしまいます。しかしその70年は、単なる罰の期間ではなく、新しい信仰が育まれていく時でもありました。
今回の箇所で最も伝えたかったのは、神の言葉は「形を変えて」語られ、生き続けていくということです。預言者を通して「語られてきた」神の言葉は、書に「書き記され」、そして新約聖書のにおいて肉となって地上に「お生まれ」になる。神の言葉はいついかなる時も私たちを救いに導くために形を変えて示されていくのです。神の言葉は、たとえどのような時代であっても、また迫害などの危機的状況であったとしても、担い手が変わっても、言葉そのものは止まらず、変わらず、今もなお語りかけられていく。どうか、アドベントの歩みの中に、そしてクリスマスの喜びの中にそのことを思い起こしつつ、感謝を持って応えていくことができればと願います。何より、私たちもどのような時であっても御言葉を語り、諦めずに隣人と共に歩み続ける教会、そして人であれますように。
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