11/16 「わたしは主」 三浦 遙 牧師  聖句:出エジ6:2-13

 出エジプト記6章には、苦しみの中にあるイスラエルの民に向けて、神が救いの約束を新たに語られる場面が描かれています。モーセはその救いの器として召されますが、彼の歩みは決して順風満帆ではありませんでした。エジプトの王子として育てられたものの、同胞を守ろうとして人を殺してしまい、王の怒りを買って逃亡の身となります。ミディアンで羊飼いとして平穏に暮らしていたその時、神は燃え尽きぬ柴の中から語りかけられます。「わたしは必ず、あなたと共にいる。」神は民の叫びを聞いたからこそ、あなたを遣わすとモーセに告げたのです。

 しかしモーセは、「私は何者なのでしょうか」「私は口が重い」と幾度も尻込みします。偉大な指導者として語られるモーセですが、召命の時には不甲斐なさを感じさせる姿が描かれます。もちろん自分の弱さや過去を思うとき、神の使命に応えるのは困難だと感じるのは当然かもしれません。けれど神は、そのような弱さのただ中でこそ働かれる方です。人の能力ではなく、神の恵みによってこそ救いは成し遂げられる。モーセの召命は、神が苦しむ者に心を寄せ、耐え忍ぶ人々に希望を与えようとされる御心の現れです。

 わたしたちの歩みも、すべてが明るいわけではありません。不安や恐れの中で、進むべき道が見えなくなることもあります。しかし、そのような時こそ、「わたしはあなたと共にいる」という神の言葉が響いてくるのです。神は今も教会に集う一人一人を見つめ、必要な導きを与えてくださっています。たとえ召命が不意に思えても、そこには深い恵みと希望があります。教会の働きに携わる中でも、また日常の生活の中でも、主が共におられることを信じて歩んでいく。その確信こそ、私たちの力となるのです。信仰の道には戸惑いもありますが、そんな迷いの時にこそ、様々な形で「わたしが主である」と励ましてくださる。そして、神が共にいてくださると信じるとき、私たちは希望をもって進むことができるのです。モーセのように、主に遣わされ、恵みの約束に生かされる者として、主の導きに従いながら歩んでまいりましょう。

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