11/2 「道を照らす光」 三浦 遙 牧師  聖句:創世4:1-10

 創世記4章には、人間の堕落が兄弟関係を通して描かれています。神に捧げものをする兄カインと弟アベル。神は弟アベルの捧げものに目を留め、兄カインのものにはそうされませんでした。この目にみえる違いに激しい怒りを覚えたカインに、神は語ります。「罪が戸口で待ち伏せている。あなたはそれを治めなければならない」と。人は誘惑に弱く、道を違えてしまう事がある。そうならないようにと戒められたのでした。しかしカインはその言葉に従えず、感情に支配されてしまいます。弟を野に誘い出し、殺し、土に埋めます。そして神に「弟はどこにいるのか」と問われると、「知りません」と嘘をつきます。この言葉には、命を奪うだけでなく、これまでの関係すらも断ち切り、2度弟を殺してしまう悲惨さが現れています。憎しみ以上に、無関心は愛の対極にあるものです。

 そこには、目に見えるものしか信じられない人間の弱さと限界が浮かび上がります。人は善悪の知識の木の実を食べたときから、自分の基準や価値観で世界を見て判断するようになりました。比較し、優劣をつけ、評価されたいという欲望に支配されるようになったのです。しかし神は目に見える実績や人間的な判断ではなく、すべての命に対して平等にまなざしを注がれます。その愛は測れず、分け隔てがありません。神は沈黙しているように見えても、常に私たちを見つめてくださっています。

 召天者記念礼拝を迎える今、私たちは信仰の先達たちの姿に思いをはせます。彼らは人間的な栄誉や功績を超えて、神のまなざしのもとに歩まれた方々でした。信じない人にとっては確かに目には映らず、「知りません」と存在を忘れ去られていくことがあっても、私たちが思い起こす信仰の先達たちの姿は、私たちが神の恵みに立ち返り、真実に生きる道を照らす光としていつも共にあります。召天者の生き様が、今を生きる私たちの信仰を励まし、導いてくれるのです。私たちもまた、神のまなざしの中にあることを信じつつ、それぞれの命の尊さに目を向けて歩んでいきたいものです。たとえ小さな関わりであっても、無関心ではなく、愛をもって誰かに寄り添うことができますように。そして、信仰の先達のように、神の愛を信じ、その愛を生きる者として日々を歩んでまいりましょう。

0コメント

  • 1000 / 1000