10/26 「共に生きる」 三浦 遙 牧師 聖句:創世2:4b-9, 15-25
創世記2章には「人が独りでいるのは良くない」という神の言葉があります。その言葉は今の社会にとってどのように受け取られるでしょうか。「1人が良い」「1人でも生きていける」と考えてしまう人もおられるかもしれません。しかし聖書において、人は他者と共に生きる存在として造られました。この言葉は、現代社会に生きる私たちにも強い問いかけです。SNSの普及で人の交わりは大きく変化しました。一人一人が個性を強く体現できる時代であり、特に「結婚しなくても幸せになれる時代」とも言われます。しかし、だからこそ深い孤独を抱える人も少なくありません。「共に生きる」とは、単なる利害関係のある共存ではなく、心を通わせ、思いを分かち合う関係の中にこそあるのです。
私は大学時代、京都教区主催のネパールワークキャンプに参加しました。その中で「共に生きるために」という意味の「サンガイ ジウナ コ ラギ」というネパール語の言葉を教わりました。ネパールの無医村で医療支援をしておられた岩村昇さんは、ある若者が足を痛めたおばあさんを三日間背負って遠方の家まで送り届ける出来事に出会います。その若者は、「若さを分けてあげただけだよ」と言い、見返りを求めず、「サンガイ ジウナ コ ラギ(共に生きるために)」と答えたのでした。その言葉には人と共にある尊さと希望が詰まっています。
神は人を土から造り、命の息を吹き込まれました。そして、助け手として動物たちを備え、人を与えて共に生きる存在として整えてくださいました。私たちは創造の秩序の中に生かされており、その秩序を守り、共に歩む責任が与えられています。マルコ10章には「二人は一体となる」とあります。これは結婚の教えでもあると同時に、人が誰かと支え合いながら生きるように創られたことを示しています。人は決して強くはありません。何より、支えを必要とする人が今の世にも多くおられます。一人でも生きていけるという高慢さの中、孤独が広がるこの時代にあって、創世記の言葉とそこに示される共生の姿は、私たちに今も大切な光を灯してくれます。神に造られた者として、共に生きる歩みを取り戻したいと心から願います。
0コメント