10/12 「信仰の日々」 三浦 遙 聖句:2テサ3:6-13
2テサロニケ3章には「怠惰な生活を戒める」との厳しい勧告が記されています。パウロは、「昼も夜も苦労して働いた」と語り、宣教の傍ら、自らの生活費は自分自身の労働によって賄い、他者に負担をかけずに生きようとする強い意志を持って歩みました。特にパウロはテント職人と共に働いていたと他の箇所では記されています。それは、動物の皮をなめす仕事であり、差別の対象でもありました。働きの場であってもパウロは、弱くされた人々と共に歩んでいたのです。あえて教会からの支援を受けなかったのは、福音の純粋性と信頼性を守り、経済的な誤解や特権意識を避けるためであり、この姿勢は、信仰と日常生活が切り離されるべきでないという確固たる証しでした。
「怠惰」と訳された語は、原語では「無秩序な歩み」とも訳され、単に働かないことではなく、信仰共同体に対して無責任で、自分の都合のみで動く姿勢そのものを指しています。当時のテサロニケ教会では、キリストの再臨が近いと信じ、日々の仕事を放棄する人々もいたとされます。けれども、信仰は教会の中だけで完結するものではなく、仕事や家庭、社会生活の中にも貫かれるべきものです。誠実に働くという日常の営みもまた、神への応答であり、隣人への愛を表す実践的な信仰のかたちなのです。現代においても、成果主義や効率一辺倒の中で、働く意味を見失うことがありますが、聖書はその本質を「仕えること」として回復させてくれます。
「自分で得たパンを食べよ」というパウロの言葉は、信仰者が与えられた賜物に応え、自らの責任を果たすよう促す呼びかけです。聖餐においてパンと杯を受け取る時、わたしたちは単に与えられる恵みにあずかるだけではなく、その恵みに応答する意志をもって受け取ります。神は努力や能力ではなく、必要に応じて最善を備えてくださるお方です。だからこそ、私たちも怠惰に陥らず、無秩序ではなく、互いに支え合いながら、神の御心に従って誠実に働き、たゆまず善を行い、日々の営みの中で主に仕える者として生きていきましょう。信仰と労働を一つとし、すべてを主にささげて歩み続ける者でありたいと願います。
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