8/24 「絶望の隣は希望」 三浦 遙  聖句:使徒20:17-38

 80年前のヒロシマ・ナガサキの原爆投下、そして終戦・敗戦から今日まで、私たちは幾度となく「平和とは何か」を問い続けてきました。苦しみの歴史をただ悲しむのではなく、同じ過ちを繰り返さぬよう、記憶を受け継ぎ、祈りを絶やさないこと。そこに、キリスト者の大切な使命があると信じます。聖書においても、苦難は決して他人事ではありません。エレミヤは神に従うがゆえに嘲られ、パウロは投獄と死を覚悟しながらも、福音を宣べ伝えることをやめませんでした。イエスもまた、「私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」と弟子たちに語り、迫害を前提とした歩みへと招かれました。苦難は信仰者にとって避けがたい現実でありながら、それでもなお「共に歩む神」の存在こそが、私たちを支える希望なのです。

 使徒言行録20章におけるパウロの別れの言葉は、まさにこの信仰の核心を示しています。自らの命すら惜しまず、主から与えられた使命を走り抜こうとするその姿には、苦難に屈しない信仰の強さがありました。本来そこには、イエスのゲツセマネの祈りのように苦悩があったはずです。しかしパウロはイエスがなさったように神の御心を受け止め、教会に残された者たちに「目を覚ましていなさい」「弱い者を助けなさい」と励まします。これは今日の私たちにも向けられた言葉です。私たちは、個人としても教会としても、多くの困難と向き合う時代に生きています。けれども、だからこそ支え合い、祈り合い、共に希望を見出す「苦難の共同体」としての教会の姿が、いま求められているのです。

 イエスやパウロが苦難へ歩まれたのは、その先で絶望する人の隣で希望として共に立つためでした。たとえ小さくとも希望はそこにあるだけで、大きな励ましを与えてくれる。私たちも、そして教会も、絶望する誰かの、そして絶望する社会の隣に立ち続ける希望でありたいと願います。苦難を恐れず、神の導きに信頼し、共に歩む者でありたいと願います。それは、傷ついた過去を忘れずに、痛みを抱えたままであっても、赦しと和解、そして平和への希望を語り続ける歩みです。教会はその証人として、これからも立ち続けていきましょう。

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