8/17 「今を見つめる」 三浦 遙  聖句:使徒9:26-31

 サウロはユダヤ教徒としてキリスト者を迫害してきました。しかし、復活のイエスに出会い、回心し、キリスト教最大の宣教者へと変えられていきます。そんなサウロを当時の使徒達は受け入れられませんでした。迫害者であるサウロが変わったことを信じられなかったのです。当時の使徒達の懸念はよく分かります。キリスト者の中には殉教者も出ていましたし、ユダヤ教からの迫害はとても厳しいものでした。180度も急に変わったと言われても受け入れられるはずがありません。しかし、バルナバという人物はサウロが変えられたこと、そして神の導きを信頼し、サウロを受け入れていく姿が描かれていきます。

 平和を祈り求める8月の歩みの中で、キリスト教会の願う平和とはなんでしょうか。この物語のように、社会の中で虐げられ、居場所を奪われた人々に対して、愛を持って受け入れていく姿は、まさに平和を体現するものです。私たちも教会が憩いの場であり、御言葉と交わりを通して慰められ、希望を示され、新しい日々に送り出されています。しかし、今の世にあって、キリスト教会はバルナバのように受け入れていく場所であると同時に、迫害者であるサウロでもあると思うのです。世にある迫害を受ける人々、差別や重荷を背負わされている人々にとって、教会が、そして私たち自身がそれらを素通りし、助長し、その問題を見ようとしないという意味での迫害者として見られているのではないか。このことを受け入れていくことには大きな痛みを伴います。平和を願う私たちが、教会に集う私たちが、ある意味では迫害者として歩んでしまっているという言葉は、大変受け入れられないものです。

 しかし、この言葉は、決して断罪の意味ではありません。サウロがそうであったように、キリストによって私達は日々、そして毎週の礼拝を通して変えられ、導かれ、平和のために送り出されていることを忘れてはなりません。だからこそ、初代キリスト教会が神の愛を信じてそうされたように、今の私たちもバルナバとして受け入れ、サウロのように変えられ、互いの今を見つめ、共に喜び共に泣くように、日々変わっていくそれぞれの痛みも喜びも、受け入れあっていく。そんな愛ある交わりを成していきたいと願うのです。一人一人が喜びと希望を持って生きることのできる、そんな平和を願っていくことが出来ますように。

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