7/6 「献身とは」 三浦 遙 聖句:2コリ8:1-15
「豊かさ」の捉え方は人それぞれ異なるものです。言い換えれば、私たちの生きる世界には、目に見えるものの「豊かさ」だけではないということです。現代社会における豊かさは「沢山もらう、多くを持っている」意味での裕福さが多いですが、使徒パウロが手紙を通して示すのは「神の恵み」によって満たされていくことでした。今回の箇所では、エルサレム教会への経済的支援のため、献金を行うことがコリントの教会にて躊躇われていたとき、パウロはマケドニアの教会の模範を示しつつ、寛大に献げること勧めています。マケドニアの教会は困難の中でも惜しみなく献げることで喜びに満たされたというのです。
貧しさの中での献金というと、福音書に描かれる「やもめの献金」を思い起こします。金持ちが献金箱に多額のお金を入れ、ジャラジャラと大きな音を立てることで有力さをアピールする中、誰にも注目されないやもめが全財産ともいえる僅かなお金を献げる。その姿を見たイエスは、「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた」と言われたのです。このやもめは何を思って献金したのか。おそらく、自身の生活以上に神の御心に希望をおいて献げられたのです。手紙の中でパウロもコリントの人々に対して、キリストも「あなた方のために貧しくなられた」と言います。自身の身を犠牲にし、神の御心や私達一人一人のためにその身を献げられたのです。そして最後には出エジプト記のマナの物語から、献げられたものは必要な人々のために用いられていくと示すのでした。
献金や自身のものを献げることは、確かに貧しさへと繋がります。しかし、それはこの世的な価値観の中で生きることから離れられずにいる姿でもあるのです。献げ物を主なる神が必要な人々に平等に分かち合われることは、献げ物を通して、主なる神の恵みの業に参与するということなのです。そのことを私たちは「献身」という言葉で表現します。私達は共に喜び、共に泣くように、分かち合う群れです。どのような賜物であっても、自分を愛するように、主なる神と愛する人々のためにそれらを献げていく。目に見えない豊かさと主の御業に希望を置き、義務からではなく、喜びの中で惜しみなく献身していくことが出来ますように。
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