6/29 「夜空の星」 三浦 遙 聖句:フィリピ2:12-18
パウロはフィリピの信徒への手紙の中で、自身が後にした教会を励ます言葉を記しています。まだまだ未成熟であった教会は様々な艱難に遭い、不安定な状況であったためです。多くの手紙では厳しい言葉もありますが、このフィリピの信徒への手紙では喜びの言葉が多く記されていくのが特徴的です。しかしこの時パウロは「喜び」という言葉とは打って変わって、投獄中という困難さの只中にありましたが、「供え物として注がれることになったとしても」共に喜ぶようにと教会の人々へ語りかけていくのでした。それは、たとえ獄中という困難さの中であっても、自身だけでなく、フィリピの教会の人々が主の業に用いられる「今」に大きな喜びと希望を抱いていたからでした。
今回のパウロの言葉の中で注目したいのは、主の御心に従って歩む人々は「世にあって星のように輝く」という言葉です。福音書でもイエスが「地の塩、世の光」という教えを語っていました。また旧約聖書でも神の栄光や主の永遠の光という言葉において、輝かしさと喜びの姿が描かれていきます。この信仰者は「世に輝く星のようである」という言葉は、私達にとっても想像しやすいものですが、現代社会において星の輝きは目に見えづらいものになってしまいました。街は夜も煌々と輝き、本当に暗い瞬間というのは感じられません。それでは、星の輝きは意味を成さなくなったのでしょうか。私達信仰者の光はどのように輝くのでしょうか。
星の光と聞くと、とある船乗り達のお話を思い出します。船で沖に漁に出ていた船乗り達が、夜の海に取り残され、帰る道を失ってしまい、手元の明かりで周囲を見渡しても、陸地は見当たりません。深く絶望した時、一人の漁師が手元の明かりを全て消すように言うと、真っ暗闇の中、今まで見えなかった星の光を見つけ、方角を知り、港に帰ることが出来たというお話。出典は明らかではありませんが、不思議と記憶に残っています。今の世にある光は、どうも人を惑わすものばかりに感じられますし、星の光は明るい時には見えません。本当に暗い時にしか見ることが叶わないけれど、それでも薄らとした光が本当に苦しむ人々にはハッキリと見えるのだと。私達もそのように人々を主の道へ導く、世の光として歩んで生きたと願います。
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