6/22 「愛のため」 三浦 遙    聖句:使徒17:22-34

 「悔い改め」と聞くと、原文のギリシア語の「メタノイア」を逆から読むと「アイノタメ」になるというお話を思い出します。「メタノイア」は「視点、視座の転換」という意味の言葉です。そしてヘブライ語における悔い改めを意味する「シューブ」という言葉には「帰る」という意味があるのだそう。イエスの宣教の初めもこの「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉でありました。それは、人間が世俗的な視点、価値観から脱却し、神の視点、価値観から物事を見つめていくこと、言い換えれば目に見えないものを見つめて、神の道へ立ち返ることを促すものです。

 パウロはアテネにて、「知られざる神に」と刻まれた祭壇を見つけます。アテネの人々が、名も知らない神からの反感を買わないようにと設置したものです。パウロは天地創造の神がその方だと示すのでした。そして偶像を撤廃し、主なる神に立ち返る「悔い改め」を促すのです。悔い改めは自身の罪を認めるという痛みを伴うものでもあります。頑なな心では成しえないものです。しかし、悔い改める者を神は赦し、新しい命を与えてくださるということは希望に満ちた言葉です。言い換えれば何度でもやり直すことが許されているということ。放蕩息子との例えや失われた銀貨のたとえのように、主なる神は離れ去った者が帰ってくることを大いに喜び、赦し、受け入れてくださる。遠く離れた者を決して諦めず、何度だって声をかけ、招いてくださるのです。

 この「悔い改め」は、罪を認めろと追い詰めるためのものではなく、その人を生かすため、愛のための招きであるということなのです。 だからこそ、私達も迷いの時に「主の道を示してください」と祈り、立ち返ることを願っていく。弱く戸惑いばかりの私達であっても、必ず主が私達を受け入れ、恵みに内に赦し、導いてくださると信じているからです。その愛に応えるために、感謝を持って悔い改め、祈りを持って主に従っていくことが出来ますようにと祈ります。

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