6/15 「招きに応えて」 三浦 遙    聖句:エフェ1:3-14

 イエスは福音宣教の中で、「重荷を追うものは誰でも来なさい」と言われました。また、子ども達が来るのを妨げてはならないと弟子達を叱る姿もあります。当時の社会の中で、一見相応しくないと思う者であっても、イエスは自身の元に招いてくのです。イエスはその生涯と、また自身の贖いの死を通して、全ての人を救いへと招き、導こうとされる。しかし、その招きに対してどのように応えるのかが私達にも問われているのです。

 使徒パウロはその多くの手紙を通し、確信を持ってキリストの贖いと救いを示していきます。特に聖霊が与えられたことを通して、救いへ招かれていることを強調して語りかけるのでした。注目したいのは「キリストにあって私達をお選びになりました。」という言葉。「召命」ともいえる神の招きですが、その様子は聖書の物語の中でも様々です。出エジプト記のモーセは、神から遣わされた時、色々な理由を持ち出してそれを断りますが、最終的にはイヤイヤながらも従っていきます。それと比べて預言者イザヤは「ここに私がおります。」と自身を力強く示していく。主の選びは、まさに主の御心であり、その人自身の思いを超えて示されていくものであるといえるかもしれません。

 そう思うと、私達が信仰の道へ招かれたのは何故でしょうか。どのようにして、その招きに応えるべきでしょうか。エフェソの手紙では「神の栄光をほめたたえるため」に選び出されたと記しています。そのために「約束された聖霊によって証印を押された」のだと。私達はその招きに応えるために水と聖霊による洗礼を受け、主に従うことを選び、礼拝を通して賛美と感謝を持って御心に適うようにと歩んでいる。主の御心は私達には到底理解出来るものではありませんが、それでも御言葉に聞き、平和と愛を願って歩んでいくことが私達の応答です。同じく、私達も地域の子ども達や、重荷を背負わされて歩む人々を中心に、全ての人を招き、愛のある交わりを成していくことが出来ればと願います。

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