6/1 「信頼の内に委ねて」 三浦 遙 聖句:ルカ24:44-53
イエスの復活と昇天の物語を読む時、いつも疑問に思うのが、何故イエスは自分自身で宣教を続けられなかったのかということです。イエスが復活したのであれば、自分の姿を示した方がより多くの人が信じたのではないかとも思います。しかし、イエスはそうなされませんでした。福音宣教を弟子たち、もっと言えば人間に委ねるという事が必要であったのだと言われます。ペンテコステの中でもはっきりと示されていくのですが、昇天するイエスからも「復活と罪の赦しの証人」として使徒達は遣わされていきます。
もともと「全世界に神の祝福を」という弟子達の使命は、旧約聖書の創世記に登場するアブラムと神との契約の内に示されたものです。旧約聖書ではその約束を人間が蔑ろにしてしまった、または神と人との間に大きな溝があったために、無効になってしまいましたが、イエスがその大きな溝を埋め、契約を改めて結ばれた。自身の弟子たちをはじめとする全ての人と神との間にあった大きな隔たりを取り除き、今一度、神と人とが契約を交わす様子が受難と復活、そして昇天の物語にて描かれているのです。だからこそ、その後のことを人に信頼の内に任せ委ねていくのです。信じるも信じないも、契約を果たすも破棄するも、人々に委ねられていくのです。しかし、主の御名によって歩むとき、必ず守り導いてくださることが聖書の言葉において示されていきます。
弟子達は宣教の使命を託され、その信頼に応えていく様子が後の使徒言行録の物語において描かれていきます。そして、その使命はパウロの語る「キリストを頭」としたキリスト教会へと引き継がれていくのです。今の私達も教会として受け継がれた「復活と罪の赦しの証人」としての働きを求められていきます。2000年以上前の出来事を証しするなんて突拍子もないことに感じられますが、キリストの贖いと復活の出来事は今の私達にも豊かに恵みと希望を与えてくださる。私達も主の信頼に応え、今も注がれる豊かな愛の証人として、歩んでいきましょう。
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