5/25 「この祈り」 三浦 遙    聖句:マタイ6:1-15

キリスト教会で毎週祈られる「主の祈り」。その祈りについて弟子達に教える様子を描いた今回の箇所では、祈りの中でどのようなことが必要となるかを教えてくれます。祈りの中にある「負い目を赦してください。私達も赦しまたように」という言葉は、神との関係において特に重要なものです。偽善的で一方的な祈りではなく、「赦し」の実践を通して神との関係を見つめていくことが示されていきます。

 奇跡や御手の働きは私達が願ったから示されるものではありません。神に委ねることで、私達に必要な時にこそ示されていくものです。祈りは求めてもそのままで応えられることは多くありません。私も小さい頃、多く祈りました。しかしそれは、新しい玩具が欲しいと願えば友達が与えられ、賢くなりたいと願えば学校で多くの宿題が出されたように、願った通りではなくより良い形で示されてきたように思います。それは旧約聖書の物語においても、奇跡やしるしが人間の願いによって起こされるのではなく、神の御心によってのみ示されていく形で描かれていました。何よりイエス・キリストの生涯を通して、信仰と祈りに応えてくださる神様の姿が示されていきます。

 今の教会でも祈られている「主の祈り」を私達はどのように祈っているでしょうか。ただただ長年祈ってきた定型句のように、祈ってしまう時もあるかもしれません。時々、似たように続く言葉に騙されて、一行飛ばして読んでしまう時もあるかもしれません。それでも、見なくても祈れてしまうほど、ずっと祈り続けてきた大切な祈り。どれだけ時がたっても、この祈りだけは忘れないだろうと思えてしまうほど、私達の心に刻み込まれてきた祈り。これからも、私達はこの主の祈りを全国の教会、世界中の信仰者と共に祈り、神を賛美していく。本来、神との対話であり、一人で行うはずの祈りを共に祈るのは、何よりも神の御心を求め、賛美する祈りだからこそ、皆で共に祈るのです。この混乱の時代。今こそ共に主の祈りを祈りつつ、神の御心に委ねていくことが出来ますように。      

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