5/18 「内におられる」 三浦 遙 聖句:ヨハネ14:1-11
「心を騒がせてはならない」というイエスの言葉は、裏切りの予告や訣別の言葉を受けた弟子達の不安を見通しています。そして、「信じなさい」という言葉や「あなたがたのための場所」という言葉で安心を与えようとしていました。しかし、イエスもまた心を騒がせている様子が13章の裏切りの予告の場面で描かれていきます。ここでの弟子達への言葉は、自身の受難を予見したイエスに対しても語られている言葉なのです。しかしトマスやフィリポのように戸惑う弟子もいます。どのように歩めば良いのかという不安があるのです。その問いにイエスはイエスを通して父を信じること、そして業を通して信じるようにと示すのでした。
イエスの生涯、そしてその行いは突き詰めて言えば「愛の実践」です。神が人を愛したように、私達も神を愛し、隣人を愛すること、イエスは全てにおいて示されてきました。それは自身に敵対するものすら愛するというダビデとサウル王の物語やヨハネの手紙の「愛の実践」においても同様に示されるものです。
注目したいのはこの、「私が父の内におり、父が私の内におられると」いう言葉。神がイエスの内におられるというのは、神の子イエスに限った話ではありません。イエスや神を信じることが出来なかった、理解することが出来なかった弟子達ですが、後々イエスの意志を継ぎ、世界中の人々へ神のみ言葉を告げ知らせる働きを成していきます。まさにその働きの中にこそ、神の御手の働き、聖霊の導きが豊かに注がれていた。弟子たちの内にも、イエスや神が共におられ、イエスや神の内に弟子たちが守られていたのだと示めされていくのです。
それは、イエスをキリストと仰ぎ信じる私達にも繋がっており、神が共におられ、私達を通して神の御手の働きが示されていくのです。敵をも愛するその愛の実践を通して、信仰の道へ導かれていくことを希望として歩んでいきたいと願います。
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