5/11 「再建の主」 三浦 遙 聖句:ヨハネ11:17-27
ヨハネによる福音書11章には、ラザロの死と復活をめぐる劇的な物語が描かれています。イエスと親しかったベタニアの三姉弟、マルタ、マリア、ラザロ。そのラザロが病に倒れたとき、姉妹はイエスに知らせを送りますが、イエスはすぐには向かわず、二日間留まりました。イエスの取り巻く環境には多くの迫害者がおり、弟子たちにとっても動くことは避けたかったのですが、イエスは神の御心に従う形で時を待ちます。その間にラザロは死に、四日後に到着したイエスを迎えたマルタは、「もしここにいてくださったら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と嘆くのでした。一方で「神に願えば、何でも叶うと今でも信じています」と告白する姿から、悲しみと信仰が入り混じった心情がうかがえます。イエスは「あなたの兄弟は復活する」と語りますが、マルタは「終わりの日に復活することは知っています」と応じ、奇跡が今ここで起こるとは理解していません。マルタの中には希望だけではなく、目の前の絶望と諦めの想いがあるのです。
そこでイエスは、「わたしは復活であり、命である」と宣言し、マルタに信仰を問いかけます。この言葉は、死を前にした人間の限界と、神の御業への信頼の間で揺れる私たちの姿を浮き彫りにします。聖書には、ネヘミヤがバビロン捕囚後の荒廃した城壁を見て絶望する姿や、パウロが困難の中でも教会をひとつの体として励ます姿など、同様の葛藤と希望が描かれています。私たちもまた、現代の不安や苦しみの中で、「復活と命であるイエス」に目を向けるよう招かれているのです。
この物語は、悲しみと絶望の中にも希望が差し込むこと、そしてその希望はイエス・キリストを信じる信仰の中にあることを力強く示しています。ラザロの死に際し、イエスが涙を流されたことも印象的です。神の御子である方が、人間の悲しみに心を寄せ、その痛みに共感された姿は、私たちの苦しみが決して無視されないことを示しています。そしてイエスは、「ラザロ、出てきなさい」と叫び、死んでいた者が再び命を与えられるという奇跡を行いました。これは単なる奇跡譚ではなく、神の栄光を現す出来事であり、信じる者に新たな命と希望が与えられるという福音の中心を示すものです。様々な絶望を前に、命と希望を再建させるイエスの姿から、私たちも諦めるのではなく、主なる神に望みをおいて歩んでいきたいと願います。
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