5/4 「見えないけれど」 三浦 遙 聖句:マタイ12:38-42
マタイによる福音書12章38〜42節では、律法学者たちがイエスに「先生、しるしを見せてください」と願う場面が描かれています。これは彼らがイエスの教えに心を動かされながらも、しかし完全には信じきれない様子を表していのでしょう。「あなたが神の子なら、その証拠を見せてほしい」という学者らの願いは、まさに信じたいけれど確信が持てないという、人間らしい正直な姿かもしれません。それは旧約の時代、モーセをはじめとした神の指導者たちは奇跡を通して民を導いたこと、ユダヤ人にとって奇跡は、神が共におられるしるしであり、自分たちの信仰の土台でもあるのです。
今回のように、イエスに「しるし」を求めるのは自然なこととも言えるでしょう。しかし、聖書の中で奇跡は、神への信頼と従順の中で与えられるものであり、決して人間の期待に応じるためではありません。そのような神を思い通りに動かそうとする姿勢は、突き詰めて言えば傲慢であり、信頼と奉仕という信仰の本質からは離れています。イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかにはしるしは与えられない」と応答されました。旧約の預言者ヨナは神の命令に背きながらも、最終的にはニネベの人々に神の言葉を伝え、その結果多くの人々が悔い改めました。この出来事のように、神の働きは人の思惑を超えて進められます。イエスもまた、十字架の道を歩み、「神の子なら救ってみろ」と試されながらも、沈黙を守り、神の御心に従いました。そして三日目に復活されるという最大のしるしが与えられたのです。
私たちの祈りについても同じです。祈りは「こうしてほしい」という請求ではなく、「与えられた恵みに感謝し、神の御心に従います」という信頼の表明であるべきです。私自身も子どものころ、頭が良くなりたいと祈ったら宿題が増え、新しいゲームを願ったら新しい友達が与えられたという体験を通して、神の応答の思慮深さを感じたことがあります。受難の物語でイエスの十字架の死を見た百人隊長が「まことにこの人は神の子だった」と告白したように、信仰とは目に見える証拠やしるしではなく、見えない神の働きを信じる心から始まりまるのです。今も、神は私たちの人生に最善をもって働いておられます。その導きに信頼しながら、日々を歩んでいきましょう。
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