2/23 「謙虚であれ」 三浦 遙 牧師 聖句:マタイ15:21-28
聖書の言葉や物語は現在のわたし達から見ても理解が難しいものがあります。それは時代背景もそうですが、どうしても差別的に感じられるものが少なからずあるからです。
今回の箇所で登場する「カナンの女」はイエスらにとって異なる宗教や文化背景をもつ「異邦人」と呼ばれる人でした。物語の中で、イエスに対し「悪霊に苦しむ娘」の癒しを求めるカナンの女性。しかしイエスは、その嘆きに耳を貸そうとしませんでした。弟子達の声かけもあり、イエスは渋々といった感じで「わたしは失われた羊の元に遣わされている」と応えます。それは「わたしはイスラエルの人々のための救い主だ。異邦人の救い主ではない」とこの女性を突き放すものでした。加えて「子犬」という言葉で、この女性を遠ざけていきます。これらの応答は大変差別的なものです。女性であること、異邦人であることなどを理由に差別するイエスの姿には、悲しみを覚えるものです。しかしこの女性にとって唯一の救いはイエスしかいない。そのことが分かるくらい、女性は「その通りです」と言わんばかりに謙虚に受け止めつつ、それでもイエスに救いを求めていくのでした。
今回のこのイエスの姿は、旧約聖書のアブラハムと女奴隷ハガルの物語と似ています。アブラハムに追放されたハガルとその息子イシュマエルが荒野で死にかけて神に救いを求めた時、神はハガルの嘆きには応えなかった。しかし今回のイエスは、そのように沈黙する神の姿から応える神へと変えられていく。このカナンの女性との出会い、謙虚さと心からの救いを求める声によってイエスも主なる神すらも変えられていくのです。これは重要なことです。
わたし達の様々な願いを持ちます。それが叶えられることは多くありません。しかし、わたし達が切に他者のために祈る時、救いを願う時、主なる神もイエスも、わたし達の祈りを聞き、歩み寄ってくださるのです。そこには聖書を読み、その物語に示されたみ言葉や姿から、主の御心に思いを向ける謙虚さが求められる。主なる神と共に道を模索するように、寄り添い合って謙虚に歩んでいきたいと願うものです。
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