3/2 「来なさい」 三浦 遙 牧師   聖句:マタイ14:22-36

 イエスは洗礼者ヨハネの死後、祈るために山に登られました。その間、弟子たちは小舟で湖を渡るよう命じられましたが、逆風に阻まれ夜明けになっても進めません。この小舟は、マタイ福音書が書かれた当時の初期教会の姿とも重なります。教会が立たされた迫害や様々な課題という逆風です。そんな中、イエスが湖の上を歩いて近づくと、弟子たちは恐れます。しかし、イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と告げています。

 この「わたしだ」は、旧約聖書で神が自身を示す言葉と通じています。常識を超えた神の御業に人は時に恐れを抱きますが、イエスはその不安を取り除こうとされるのです。これに応じたペトロは「あなたでしたら、私に命令して水の上を歩かせてください」と願い、実際に歩き始めます。ペトロは神の言葉があれば何でもできると信じていたのです。しかし、強風に気を取られた瞬間、恐れが生じ沈みかけます。世にある様々な苦しみや不安を思い出してしまうのです。イエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言いながら彼を助けました。

 この出来事は、信じながらも不安に揺れる人間の姿を象徴し、また、イエスと共にある時、逆風さえも鎮まることを示しています。このペトロの姿は、ミスターチルドレンの『花火』の歌詞「臆病風に吹かれ、波風が立った世界をどれだけ愛せるだろう。もう一回、もう一回。」という言葉に通じます。誰もが問題を抱え、信じたくても信じられない弱さを持ちますが、それでも希望を持ち続け、もう一度信仰をもって踏み出すことの尊さが示されています。

ゲネサレトでは、人々がイエスの衣に触れるだけで癒される様子が描かれています。彼らもまた、常識を超えた神の力に踏み込もうとしていました。私たちの常識では考えられない奇跡を信じることは容易ではありませんが、神には不可能はなく、思いがけない形で救いが示されるのです。波風が立つ世界の中でも、イエスは「わたしだ。来なさい」と手を差し伸べてくださいます。だからこそ、何度でももう一度、希望をもって歩み続けましょう。そして、すべてが神の御心のままに行われますように。

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