2/16 「愛するために」 三浦 遙 牧師   聖句:マタイ5:17-20

 律法は旧約聖書から登場するもので、神からの教えとして大切にされてきました。しかしイエスが宣教した当時、この律法を利己的に解釈し、権威を振りかざす人々も多くおり、イエスとは度々対立していました。律法が誰かを排除するために用いられていたことに、イエスはNoを突きつけるのです。単純に、古い律法と新しいイエスの教えという対比に感じられますが、イエスはそれを否定しています。イエスは「律法を完成させるために来た」というのです。言い換えれば、イエスの教えもまたこの律法を通じてこそ新しい教えとして語られていくものであると示すのでした。イエスが律法を擁護するのは、律法そのものが「愛」の教えであるからといえます。

 そもそも、この律法はイスラエル民族がエジプトから脱出し、新たに歩み出した時に、モーセを通じて与えられました。エジプトを出て、新たに自治的な生き方をせざるを得なかった人々が、正しく生きることが出来るようにと神が示したルールであったのです。そこには、未熟ゆえに戸惑い迷う人々を憂い、平安と希望を与えるためという神様の愛が込められているのです。イエスの教えもまさにその愛が中心となります。主なる神を愛すること。そして自分を愛するように隣人を愛すること。律法もイエスの教えも、神の愛に基づくものなのです。律法を利己的に読み、権威のために用いる当時の権力者達に対する批判は、この愛の欠落を突き突きつけるでもあるのです。

 旧約の時代から神の愛に倣い、従って歩むことが示され、キリスト者が行うべき「正しい生き方」は神の御心に適うように歩むことである。しかし、当時の権力者はまさにそのから遠ざかっているとイエスは批判しているのです。ですが注意したいのは、批判するのは神様の愛を忘れることであって、律法そのものではない。律法を通じて、イエスの教えが語られ、そして御心の成就という愛が示される「完成」の時が訪れるのです。当時も、そして今も変わらず、必要なのは「愛」であるのです。

 神がわたし達を愛するが故に愛の教えを示された。その教えを、他者を貶め、突き放すために用いるのではなく、手を取り合い、愛ある交わりのために用いてくことを主は願っておられるし、私たちもそれに応えていくことができますようにと祈ります。

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