2/9 「み声聞け」 三浦 遙 牧師 聖句:マタイ13:10-17
イエスの教えの中でも特徴的なのが「たとえ」を用いたお話です。色々なたとえ話がありますが、当時の時代背景ありきのたとえもありますので、現代のわたし達にとっては難解です。しかし日常的なものに準えて示される教えは、当時の人々にとっても聴きやすかっただろうと思います。
今回の箇所で弟子達が「なぜたとえ用いて話すのか」と尋ねていました。言い換えれば、一部の人にしか伝わらない例えではなく「真実をもっとはっきり伝えれば、より多くの人があなたに従うだろう」と思ったからです。その問いにイエスは「天の国の秘密は、限られた人にのみ示される」と答えていました。イエスは「聞くが悟らず、見るが認めない」という言葉で聞き手に課題があると示しています。これはたとえという「日常」が誰のものであるかという問いでもあるのです。「日常」は人によって異なります。イエスのたとえは他者の日常にも心を向けられる人には理解されますが、自分だけの価値観で生きる人や人を知ろうとしない人には理解ができないのです。
しかしそれ以上にイエスの語る「言葉」は福音であり神の御心と読むことが出来ますが、それらには人間にはどうしようもない、知らされる「時」があるのです。私たちに理解できない神様の御心やご計画ですが、「まだその時ではない」という意味では、到底理解することが許されていないのです。
ここで注目したいのは、マタイは理解出来、知らされている弟子達の祝福を込めて語るイエスを描きますが、本来は理解出来るかどうかではなく、それでも付いていくかが問われていること。旧約聖書の預言者イザヤの召命の場面でも、主の言葉は「見ず、聞かず、悟らず」と逆説的なもので示されます。聞こうとしなければ聞けないし、その時が来なければ悟ることができないと言われると、神やイエスの言葉は私たちから遠く離れたものに感じられるかもしれません。しかし、その中にも「残る切り株」という先の希望が示されます。悔い改めや属するという意味での弟子として、その「時」が来るまで心を向け続け、なおイエスに従っていくことが出来るのか。わたし達にとってもイエスの言葉が理解出来ず、躓くことが多くあります。しかし、信仰生活の中でその不可解な言葉が、大きな希望と救いとなって与えられる時がある。今、理解出来るかではなく、それでも付いていく人に、神様は応えてくださるのです。
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