2/2 「祈りの家」 三浦 遙 牧師   聖句:マタイ21:12-17

 エルサレムに入城してすぐの物語に位置するこの物語は「宮清め」とも呼ばれています。印象的なのは、冒頭に描かれていた、エルサレム神殿に入った後に台や腰掛けなどをひっくり返し、客を含む商人達「皆」を追い出したイエスの姿です。ここでの商売は「礼拝に使う動物など」を遠方からきた信者に売るというもの。神殿での商売はローマ帝国の法に則る合法的な行いであったので、周囲の人々にとっては奇行に見えたでしょう。福音書の物語の中で、イエスがここまで激しく怒りを示されるのは珍しいこと。イエスの怒りは「祈りの家」とされるべき神殿が「強盗の巣」となり軽んじられていることであったことがわかります。

 「神の家」という言葉が初めて登場するのは創世記の28章で、ヤコブの夢に神が現れ、ヤコブはその場所を「神がおられる土地」としました。そのため、今回の箇所で軽んじられているのは目にみえる神殿というよりも主なる神そのものなのです。ローマという力によって守られている人々にとって、すでに目に見えない神というのは不要な存在であった。だからこそ、神殿での商売もその「形だけの信仰心」に付け込み、特定の人々だけが儲かるようなアンバランスさが成り立つのです。神と人とが人格的な関わりを持たず、ハリボテと化してしまっている中、イエスは怒りとも取れる感情を露わにしつつ、言葉を投げかけていく。人格的な関わりを示すイエスの姿でもあるのです。

 その後の会話の中で、子ども達が「ダビデの子にホサナ」と賛美をしていました。大人達には見えていないけれど、子ども達にとっての神殿は「神の家」であり、神と関われる場所であるのです。形ある力や俗物にしか心を向けない大人達と、見えないものに心を向ける子ども達の対比があります。今のわたし達の社会も、俗的なものにばかり安心を求め、形のないものへの関心は薄まっているのかもしれません。しかし、わたし達の神様は確かに人格的な関わりを示され、わたし達の心に寄り添い、共に喜び共に泣いてくださる神様です。その主にこそ祈るための家として、これからも歩んでいきたいと願います。

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