1/12 「わたしの愛する子」 三浦 遙 聖句:マタイ3:13-17
イエスは宣教活動の前に、洗礼者ヨハネの元を尋ね、洗礼を受けられました。イエスも洗礼を受けるのか、と意外に思われる方もおられるかもしれません。この洗礼は、ユダヤ人にとって自分たちの歴史を思い起こさせるものでもあります。旧約聖書のノアの方舟の物語では、水によって全ての悪が洗い流され、出エジプトの物語ではモーセが海を割り、エジプトの兵士達は水に飲み込まれてしまいます。このように水によって悪や罪が流されていくのです。その歴史と神の導きをこの洗礼によって思い起こし、受け継いでいくのです。イエスもその歴史に連なるものとして、洗礼を受けるのでした。
さて、キリスト者にとってこの洗礼は重要な意味を持ちます。キリストを信じ、救いに加わるためには、信仰の告白と水による洗礼が必要とされるからです。キリスト者の皆さんにとって、洗礼を受けた時のことは記憶に残ることだろうと思います。しかし、洗礼を受けた次の日のことは思い出せるでしょうか。そう聞くと、おそらくほとんどの方は洗礼を受けた次の日のことを覚えていないのだろうと思います。それは、洗礼を受けたからといって、そのほとんどが目に見えて変化があるわけではないからです。しかし、かといって何も変化が無いわけではない。それは、キリストの期待に応えたい、御心に適うように歩みたいと、心の燃える様な想いは抱き続けてきたように思います。それは言い換えれば、キリストへの愛であったと思うのです。
イエスが洗礼を受けられた後、天から神の霊が降ってきて、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声を聞きました。旧約のダビデの油注ぎを彷彿とさせます。イエスはこの時、どのような想いを抱いていたのか分かりません。それでも、わたし達が抱くキリストへの愛と同じように、神様への愛を抱いていたのではないでしょうか。わたし達も洗礼を受けた時、主なる神を信じると誓った時、その時の愛を思い起こしていきたいと願います。何より、そんな愛に応える神様の姿、その神様からの愛を受け、神様への愛を抱いて、御心に適うような歩みを成すことが出来ますように。
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