12/15 「先駆者」 三浦 遙 聖句:士師13:2-14
士師記に登場するサムソンの誕生の物語。その様子は新約聖書で描かれるクリスマスの物語や洗礼者ヨハネの誕生物語ととても似ています。サムソンの母は、マノアという男の妻で、不妊の女であり子どもを産んだことがなかったとされています。しかし、主の御使いが現れて、「あなたは子どもを産み、ペリシテ人からイスラエルを解き放つ先駆者となる」と告げられます。このことを、知らされたマノアは、そのことが信じられないし、本当だとしたらどうしたらよいのかと、再び主の御誓いが現れることを願うのでした。細かく見てみますと、結局主の御使いはマノアの前ではなく、女性の前に姿を現します。洗礼者ヨハネの物語においても、ヨハネの母エリザベトの言葉を信じられなかったザカリアが口を聞けなくなる様子が描かれていました。これらの描写は、女性と主の言葉を信じられなかった人の姿を通して、「小さくされた者から出る主のしるし」の姿や「信じる者の前にしか現れない主の御使い」という姿を描いているのだといえます。
注目したいのは「先駆者」という言葉。先駆者というのは、本来であればフロントランナーであり、皆よりも先に出ていくリーダーであり、本来であれば尊ばれるものです。しかし、このサムソンと洗礼者ヨハネは、神様の働きのために遣わされた先駆けであり、道を整える働きをするものでした。道を整える必要があるほどに、後ろを歩く人にとって厳しい道であったということです。マノアやザカリヤが主の御使いの言葉を信じられなかったように、サムソンや洗礼者ヨハネ、そしてイエスを見ても、非難した人々が多かった。それほどまでに人々と神様とは溝を深め、遠のいていたし、そんな茨の道を主は歩まれたのだと改めて気付かされます。
加えてそれは、今のわたし達のために歩まれた道です。主の「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という言葉、その「隣人」はわたし達の後に続く人々も含まれているのかもと思うとき、今のわたし達も、主に備えられた道を改めて整えていく先駆者として、今の世における様々な疑念や嘆きを残さないような平和の為の働きかけが求められているのかもしれません。クリスマスの喜びを持って、これからも主の道を歩んでいきたいと願います。
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