12/8 「差し伸べる手」 三浦 遙 聖句:イザ59:12-20
身近な人や仲の良い人と先入観無しに新しく出会っていくというのは、難しいことです。わたし達にとっても、今までの印象や思い出などの積み重ねによって、交わりを深めていくものだと思われます。しかし、それだけではない。人は神様によって一瞬で、たった一言で大きく変えられ、新たにされるものであると聖書が示しているからです。聖書において、中心的に語られる「罪」という言葉には色々な意味があります。しかし、根本的に語られる「罪」は、神様に背き、遠く離れてしまうことを指すものです。
今回の箇所を含めたイザヤ書の後半、第三イザヤの時代はバビロン捕囚からの解放直後の時代とされます。エルサレム帰還後の変革時期に、想像していた状況とは違うエルサレムの姿に落胆した人々へイザヤは救いと希望の言葉を投げかけます。今回の言葉は、神に背き、離れ去ってしまった嘆きともとれる「罪」の告白から始まっていました。様々な苦難の中で、神に期待し、信じることすら諦めてしまう人々が多くいたからです。「私たちの背き」とあるように、イスラエル民族の内面的な罪、神に背く人々に示される主の救い(報い)を祈るものでもあります。しかしそれだけではなく、救い主は贖う者として、罪を悔いる者の元に来られる。主による救いは全世界に示され、「島々」や「東西」の異邦人にも向けられるものなのです。
ですが、実際に来られた救い主イエス・キリストを迎え入れる難しさが福音書の物語において描かれています。故郷であるナザレで受け入れられないイエス。旧約の時代から神に背き、神から遠く離れてしまう弱さが当時の人々や今のわたし達にもあることが、はっきりと示されていくのでした。視点や価値観を変えることの出来ない、神に背く歩みを続けてきた人々ですが、そんな人々に対しても主は変わるチャンスと、隔てのない招きを示してくださる。いつでも、わたし達一人一人に手を差し伸べ、導こうとされるのです。その恵みを覚えて歩んでいくことが出来ますように。何より、わたし達も同じように互いにしんどくても、寄りかかり負担を強いるのではなく、互いに支え合っていくことができますようにと祈ります。
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