12/1 「打ち直されて」 三浦 遙 聖句:イザ2:1-5
旧約聖書のイザヤ書は、時代を跨いで「イザヤ」という名を受け継いできた預言者の言葉が記されています。イザヤの預言の中で中心的に語られるのはダビデの末裔から出る理想の救い主の姿です。今回の箇所ではその救い主が与える平和が示されています。この箇所が書かれた時代は、エジプトとアッシリアとの間で軍事的な対立と緊張の時代でした。多くの人が戦に疲れ、終わりの見えない痛みに苦しんでいた時代にイザヤは「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない。」という預言を通して、人々に希望を示すのでした。厳しい時代にこそ、主なる神から離れて歩んでしまう弱さが浮き彫りになりますが、「さぁ、主の光の中を歩もう」と主なる神に心を向けて歩むことを勧めます。
しかし、そのような希望が示されるのを待ち望むこともまた難しいものです。福音書でイエスは「その日、その時は、誰も知らない。」と言います。とある国の山奥の村の成人式では、山に登って冷たい雪の中に手を入れ、同行した大人が許可するまで手を出してはいけないというものがあります。たまたま一緒に参加した旅のカメラマンはこっそり「3分間だけ」と聞いていたうえで、同じように雪の中に手を入れます。雪の中に手を入れ続けるのはとても痛いです。カメラマンは3分数えて、難なく試験を突破したのですが、村の青年達は1分も耐えることが出来なかったのでした。人間は、苦しみの終わりが分かっていれば、我慢して耐えることが出来るのですが、終わりがいつ来るか分からないとすぐに心が折れてしまうという事でした。
聖書の人々も、わたし達も、終わりの見えない苦しみに打ちひしがれそうになりますが、イエスを通して、夜明けが近づいたという救いの御言葉が示されていきます。人を傷つけるものから、人を生かすものへと打ち直されていく。世も人も、変わることが出来るし、救い主によって平和へと招かれていくのです。その平和が与えられる日を待ち望むアドベントとなりますように。
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