11/24 「1/10の収穫」 三浦 遙 聖句:申命14:22-29
毎週の礼拝では「献金」という形で、日々の感謝を献げる時間があります。現在ではお金ですが、聖書の時代における捧げ物はその多くが収穫物でありました。それらの収穫物は「日々の糧」や「神様からの恵み」であり、その一部をお返しすることで、感謝を示していたのです。今回の箇所では、その収穫の十分の1を献げるようにと定めた言葉が記されていました。申命記は神様から与えられたルール(律法)についてを細かく語り示す書ですので、詳細が詳しく記されていました。収穫物は穀物やお酒、オリーブ油や家畜の初子まで、様々なものがあります。
しかし、この収穫への感謝はそれ以外にも意味があるというのです。それが「常にあなたの神、主を畏れることを学ぶ」ことと、「主の御前で家族と共に食べ、喜び祝う」こと、そして、「町にいつ寄留者、孤児、寡婦(パートナーと死別した人)への施し」です。収穫の喜びは長い準備の期間があるからこそ大きなものとなります。しかし、その長い期間を神様によって守られていたこと、収穫までの全てが神様の恵みがあるからこそという想いを忘れてはならないと語るのです。そしてその収穫の喜びは「分かち合うもの」であるといいます。食事という交わりの席にて、その収穫の喜びを分かち合っていく。主がその食卓に共にいてくださることを覚えていくのです。また、意外に思われるかもしれませんが、神様に捧げられた収穫の一部は町ある寄留者や孤児、パートナーを亡くした人に対しても施されていきます。町という共同体の中で、支え合っていくことをも主の名によって行っていくのでした。
なぜ「十分の1」なのかは明確ではありませんが、「十人がいれば、その十人で1人を養うことができる」という感覚であったのかもしれません。収穫感謝のこの時、神様への感謝だけではなく、その喜びを分かち合うこと、何より、苦しい想いをしている人々や重荷を背負わせている人々とも分かち合っていくことが願われていることを思い起こしていきたいと願います。何より、それらの行いを通してより豊かに祝福してくださる神様の愛にも心を向けることが出来ますように。鳳教会として、1人のキリスト者として、隣人と共に生きる為に、感謝を持って収穫を献げ、神様から頂いたモノを「愛ある交わり」を通して分かち合っていくことが出来ればと願います。
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