11/17 「主の言葉が来る」 三浦 遙 聖句:申命18:15-22
荒野の40年を経て、イスラエル民族の新しい世代に向けて言葉を語るモーセは、イスラエルの人々に「あなたの中から預言者を立てる」と告げていました。主が新たに人を加えるのではなく、民の中から選ばれていくというのです。預言者の語る言葉は、まさに神様ご自身の言葉であるからこそ、聞き従いなさいと力強く示していきます。
預言者は、指導者とは異なるものといえます。指導者というのは、何かに秀でた人ですが、預言者はただ「神の言葉を預かり告げる者」だからです。預言者とは自分の言葉ではなく、「神の言葉を告げる」ことのみ許されています。もし、主の言葉と偽り自身の言葉を告げる時には、厳しい罰が与えられるとモーセは語ります。そこには21節に示されるように、「主の言葉」と「人の言葉」とを聞き分けられない人間の弱さがあるからです。「主の言葉」の判別について、モーセは「実現するかどうか」であるといいます。これは不可解なことです。それは「いつ実現するか」分からないし、様々に思い浮かぶ疑念は、いつしか信じることすら諦めてしまいかねない躓きとなっていくのです。しかし、モーセは言葉以上に主の言葉を信頼しています。それはどれだけ御託を並べようと、確かに「主の言葉」であるならば、それを耳にした時には分かるということです。
わたし達は確かに「主の言葉」を直接聞くことはおそらくありません。ですが、これまで共に守ってきた礼拝の中で、聖書の言葉を分かち合う中で、確かにわたし達の心に響いた言葉があった。疑念を持ち、納得がいかず、モヤモヤとしていた心が晴れ渡るような、光が差すような言葉を聞くことがあったのです。そこには、一切の疑いも、理屈も無く、ただ救いと希望が与えられた。「主の言葉」とはまさにそのように、聞けば分かるほどに、力強いものなのです。
預言者達は今回の箇所以降、長いイスラエル民族の歴史の中で、都度与えられ、主の言葉を語り示してきました。多く人がその言葉に耳を塞ぎ、遠ざけていても、なおも語り続け、人々は導かれていったのです。そして、その果てに、救い主であり預言者であり、神の子であるイエス・キリストが与えられた。イエスは多くの人が躓いてきた主の言葉を次々に「実現」し、「信じる者となりなさい」と招き続けてきました。その「主の言葉」が今、このわたし達の元にも来ているし、イエスという福音の言葉が訪れるクリスマスの時を喜びと共に待ち望みたいと願います。
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