11/10 「平安の約束」 三浦 遙 聖句:創世13:1-18
イスラエル民族の祖であるアブラム(後のアブラハム)の旅は、まさに主に従う信仰がよく示されたものです。アブラムはある日突然に主によって「旅」を命じられ、行き先の分からぬまま従っていきました。今回の箇所では、その旅において人数が増え過ぎたために、甥のロトと別れて歩み始める様子が描かれています。
元々、アブラムの旅は主なる神の召命によって始まりました。行き先も目的の不明瞭であったはずですが、それでもアブラムは主に従って旅に出るのです。今回の箇所はその度の一区切りでもありました。しかし、ロトと別れた後、主なる神は再びアブラムに対して「お前の子孫を増やそう」と伝えています。人が多くなり過ぎたからわざわざロトと別れたのに、再び増やそうというのは不思議なものです。もちろん、本来約束されたことを神が再び示されたということでもあるのですが、この矛盾にも感じられる言葉が今回のテーマである「主なる神との旅路は「繰り返しを生きること」を示しています。一つの旅を終え、再び元の土地に戻ってきたアブラムは、再び召命を与えられていく。何より、再び天幕にて「礼拝」を捧げ、繰り返されていくのです。
キリスト教会も、礼拝を繰り返し守り、また様々な行事も毎年行っていきます。それは側から見ればただ同じことを繰り返しているだけにも見えますが、都度新しい発見や出会いがあり、恵みが示されていきます。ですが、その繰り返しの中でこそ、思い起こされていくものがある。アブラムの旅は確かに突然の召命で、前途多難な旅を強いられたものでしたが、アブラムはその中であっても礼拝を持って、主の導きと愛とを思い起こしてきた。その姿はのちのイスラエル民族の歩みにおいても、常に主なる神の御言葉を思い起こしたものでしたし、何より主イエスの生涯もその信仰の歩みを思いこしてなされたものでした。
礼拝を守る度に、わたし達も種なる神がアブラムやイスラエルの人々を顧み、守り導いいてこられたこと、主イエスの愛ある行いと言葉とを思い起こし、そこに立ち返っていくのです。たとえ忙しさの中で礼拝に参加できず、別の道を歩む時であっても、礼拝を受ける今この時のことを、「繰り返しを生きる」中それぞれの場で思い起こし、神様の導きをも思い出しながら歩んでいくことが出来ればと願います。この礼拝の中で思い起こされる主が示された平安の約束が、これからのわたし達の日々の歩みを守り、力を与えてくださるのです。
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