10/20 「霊に捉えられ」 三浦 遙   聖句:フィリピ3:7-21

 「キリスト教宣教の最大の功労者」とも言われる使徒パウロ。彼は元々キリスト教徒を迫害する熱心なユダヤ教徒でした。それは、平均以上の生活水準で暮らし、学があり、ユダヤ人としても完璧な信仰者であったにも関わらず、復活のキリストと出会い、目から鱗のようなものが落ちてから180度変わったのです。今回の箇所でもパウロはこれまでの功績や特権をキリストのゆえに「損失」と見なすようになったとあります。それは「塵あくた」という言葉以上に、自分にとって不利益なものとして捉えているほどです。

 今回の箇所の中心的な事柄として「律法から生じる自分の義」と「キリストへの信仰による義」という言葉がありました。この「義」という言葉は大変解釈が難しいものですが、簡単に言えば「神との正しい関係」や「救い」と読み換えることが出来ます。自分たちの力で「救い」に与れると思い込むのではなく、「キリストへの信仰」によってこそ、「神との正しい関係」があり得るのです。しかし、大きな問題はキリスト者の中でもイエスの十字架によって既に救われたと考える人々がいたこと。そうではないのだとパウロは警告します。「神との正しい関係」は今まさに始まり、キリストがわたし達に手を差し伸べ、わたし達がその招きに応えていくことで「義」となるのだと示すのでした。なので、目標はまだ先。これまでの功績が霞むほどに、神の恵みとこれからの祝福は大きく輝いている。その目標に向かって歩んでいこうとパウロは語りかけるのでした。

 注目したいのは、涙ながらに敵対者が多いこととその中でも「人々に目を向けなさい」と諭す言葉です。確かに外に向かって厳しく語りかけるパウロですが、それでも敵対者を含む周囲の人々が共に主の招きに応えていくことを願っているように思うのです。わたし達にとっても、「神との正しい関係」という言葉は重くのしかかります。腹にある欲望ばかりが大きくなりがちですが、霊に捉えられたパウロが見た「これまでの功績が霞むほどのキリストの恵み」をわたし達も感じ、また見つめながら歩んでいくことが出来ますように。何より、隣人に目を向けつつ、共に平和を願っていくことが出来ますようにと祈ります。

0コメント

  • 1000 / 1000