10/13 「継ぐために」 三浦 遙 聖句:ヘブ9:11-15
旧約聖書のレビ記では清めのための儀式として家畜を犠牲にすることを定めています。律法の教えとして血や灰を用いられていたのです。しかし、新約聖書の時代の律法は神から与えられた時の「共に生きるための道標」から「人を排除するための規定」となってしまっていたのでした。キリストの十字架はまさにこれらの「犠牲」に倣うものであり、それらを超えるものであるとされています。今回の箇所ではまさにキリストの贖いの意味について示されていました。律法によって「清い動物」とされた雄山羊や雄牛を捧げることによって人々が清められてきたが、キリストの血はそれらに勝理、穢れも罪無い、「全き清い者」である。その血によって清められるのは、全ての人を清め、さらに神を賛美する者へと変えられていく恵みがあると示しています。
これらの言葉は当時のキリスト者にとって豊かな恵みを示すだけでなく新たな契約と向き合う機会となりました。律法によって生きることで救われるという安易な発想で歩んできた人々。その中で多くの隣人を排除する生き方を無自覚に行なってきた。それらの律法に閉じ込められてきた罪を自覚し、その上でキリストに招かれる新しい生き方へ導かれていったのです。何より、様々な迫害に苦しむキリスト者達がキリストの十字架の苦しみを自分達のための痛みであったと信じることで、本当の意味での癒しと救いを強く感じていった。「永遠の大祭司」「新しい契約の仲介者」であるキリストの恵みを今一度知ることとなったのです。
わたし達も日々様々なものに惑わされているものです。安心や価値に捉われ、「今」を生きることに精一杯です。しかし、その中で隣人へ心を向けることを忘れてはいないでしょうか。共に生きることから引き離されてしまってはいないでしょうか。この手紙で語りかけられたキリストの贖いという救いの言葉が多くの人々を神と共に歩む道へ引き戻したように、そしてそれらの福音を「今」のわたし達に遺したように、わたし達もキリストの救いと福音の言葉、何よりそこにある愛ある平和を作る「共に生きる道」を歩み、受け継いでいくことが出来ればと願います。
0コメント