9/8 「魅せる生き方」  三浦 遙   聖句:1ペト2:11-25

 キリスト教会と世間一般の目線は異なるものです。言い換えれば、キリスト教会の目線は神様が人々に向ける目線を見習っていくものだからです。よく言われるのは、九十九匹の羊と迷える一匹の羊のお話で、聖書では迷う一匹の羊に心を向けるメッセージが記されますが、わたし達の社会の目線で言えば、当然の如くその迷う一匹を切り捨てて、九十九匹を守るものです。世間の規範と教会の規範の違いは、戸惑い、受け入れられない時もあるかもしれませんが、神様の目線だからこそ気付かされるものがあります。

 しかし、今回の箇所では「人の制度に従いなさい」とうメッセージがありました。ペトロの手紙Ⅰ 2章では、キリスト者はこの世において旅人、仮住まいの身であるとありました。それは、神の国という先の道があり、そこに至るまでの仮初の命であると読むことが出来ます。しかし、それは決して地上の生を軽んじるための言葉ではなく、神の国への道だからこそ、その道での使命があるというのです。それは、どのような場所であっても「立派に正しく生活をする」ことです。生き方を通して神の栄光や愛を示すためにも、善い行いを続けることが求められています。

 しかし、気になるのは「人の制度」や当時その世を治めていた「皇帝」に従えという言葉です。また、奴隷を含める召使いに対して「主人を敬え」という言葉もありました。人の制度や皇帝はまさにキリスト教や神の御心と対極にあるように感じられるものなのに、なぜそのようなことをペトロは勧めるのか。それは「キリストに倣うため」であったのです。福音書の物語においても、弟子達が皇帝批判をした際に、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉で、世の目線と神の目線との違いを示しつつ、正しく生きることを示されました。イエスも罪を犯さず、しかし神の目線に立って正しく歩まれた。そのことで、多くの苦しみを受けたが、偽りなく進まれた。その姿を見て、神の栄光と愛とを示されたのでした。

 その姿を模範とし、世の道を歩みつつ、神の道を願っていくことがキリスト教会に与えられた使命なのです。それは、世の悪を放っておくわけではありません。世の人々と共に生きることを示すものです。教会は、迷う一匹の羊を見捨てない。世の制度に向き合いつつ、神の目線を伝え、神の愛を体現することがわたし達に示された生き方であり、イエスが魅せた生き方なのです。わたし達もイエスのようにはいかなくとも、その善い行いと神様の御心に適うような目線とを持ち、苦しみや不安の多いこの世の道にて、多くの人を励ましていくような生き方ができますようにと祈ります。

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