9/1 「永遠の命」 三浦 遙 聖句:1ヨハ5:13-21
「祈り」とはなんでしょうか。キリスト者にとって欠かせないものでありながら、実際には祈りが実現することの方が少ないと感じてしまうことがあります。「神様との対話」と言われる「祈り」はわたし達に何を示してくれるのでしょうか。今回の箇所では、その前半に「祈り」について語られていました。「何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞き入れてくださる。」とあります。これは福音書においてもイエスが重ねて語られていた言葉でもあります。しかし、現実とはかけ離れたものと感じてしまいます。結局のところ、祈りの多くが実現しないのは「神の御心に適う」祈りではないからとも理解できます。
では、神様の御心とは何なのでしょうか。それは、わたし達人間には到底理解できないものです。では、「祈り」は叶うことの無い、虚しいものなのでしょうか。しかし、神様の御心は理解できずとも、神様はわたし達を愛し、報いて下さるかたであると聖書は語ります。「自分の子に良いものを与える」と示されている通りです。また、祈りは願った通りではなくその人にとって最も良い形で聞き入れられるものであるともいわれます。どのように叶えて下さるかわからずとも、神に願ったことは叶えられている、必ず聞き入れてくださっているのです。目の前の現実は変わらないと感じても、神様の計画や御心の中では、その祈りを受け止め、わたし達にとって最良のものを示して下さる時が必ず訪れると、わたし達は信じているのです。
その確信や信頼が後の箇所においても示されていました。少し難しい言葉で表現されていますが、注目したいのは「わたし達は知っています。」という言葉です。世にある様々な悪。しかし、神によって導かれるために、わたし達が遣わされています。「罪を犯している兄弟のために神に願いなさい」という言葉もまさに導きと招きの業をわたし達が担っていることを示すものです。また、たとえ悪や罪が蔓延ろうとも、「真実の方」である神様やイエス・キリストによって守られ導かれていくという信頼が「わたし達は知っています」という言葉に込められているのでした。
わたし達にとって、祈りとは何でしょうか。叶えられないなら祈る必要はないと思われるかもしれませんが、そもそも叶えられるかどうかで祈るものではないのかもしれません。祈りが実現するかどうかを神に委ねていくだけでなく、わたし達が願い、思うように祈り、それらを自分たちで実現するために歩み出していかなければならない。その歩みの上に、神様の豊かな祝福を願って進んでいくし、神様がその御心によって守り導いてくださる。そんなふうに、信頼と希望を抱きつつ、真実の神、永遠の命である主なる神様と共にこれからも歩んでいくことができればと願います。
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