8/11 「大切なのは」  三浦 遙   聖句:1コリ3:1-9

「信仰」というものはなかなかに捉えづらいものです。それは大小や深さや歴の長さなどでは測れないものだからです。信仰は持つか持たないかですが、日本の宗教観の中では信仰は「持つ」ものですらない、当たり前のマナーのようなものとして扱われたりもします。しかし使徒パウロは「信仰の成長」とも受け取れるような言葉を投げかけています。

 コリントの教会では教会内で対立がありました。「お互いの妬みや争いが絶えない」とある通り、それぞれの批判を繰り返していたのでした。その対立の中では、指導者であったアポロとパウロのどちらの教えが正しいのかという議論も起こっていたのです。そのことについてパウロは「あなた方は乳飲み子である」と信仰的な幼さを厳しく示しています。パウロは、アポロもパウロも、あなた方を信仰に導くために主がお与えになったが、それは主によって召されたこと。何より、アポロとパウロでは役割が違っていたかもしれないが、そもそも成長を与えてくださるのは主なる神であることを忘れてはならないと示すのでした。そして、対立するのではなく、神のために力を合わせて働く者であり、あなた方から喜びの収穫が与えられる神の畑、人々が祈りと賛美と休息のために集う居場所としての神の建物であることを思い起こして欲しいと示すのでした。

 少し疑問に思うのは、自身が教えを示してきたけれど、コリントの人々はその教えを蔑ろにし、人間的な価値観の中で対立をしてきました。それは信仰的に幼い、というより信仰そのものを履き違えている、言い換えれば信仰すら持っていないと言っても良いのではと思ったりもします。しかしパウロは、そうではなく、「まだ成長していない」と表現しました。それはコリントの人々を否定するのではなく、その弱さすらも受け止めている姿なのかもしれません。大切なのは、考えが違うことや間違うことを否定するのではなく、そこから「成長していく」、変わっていく事ができるというパウロの愛ある思いと、希望が示されています。何より、それぞれ違いがあっても、遣わしたのもその後の成長を与えてくださるのも、主なる神である。

 わたし達も担う業は違くとも、神様によって遣わされたその時々で、主なる神を愛し、神の愛をより多くの人々に告げ知らせるような働きをなしていく事ができればと願います。

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