8/4 「わたし達の信仰」  三浦 遙   聖句:1ヨハ5:1-5

 世の中にある争いはいつになったら無くなるのでしょうか。オリンピックが盛り上がる中でも、差別的な扱いへの批判などが注目されています。平等や公平といったものを感じられない社会はあまりにも窮屈で、そして恐ろしいものです。それ以上に怖いのは、自分達こそが正義であると考えてしまうことかもしれません。争いのほとんどは、悪と正義の対立ではなく、正義と正義の対立であるからです。しかし、結局のところそれらは相手を否定するためだけの正義でしかない。その正義と聖書の示す信仰とは別物であることが示されています。

 「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、神を愛する者は、神から生まれた者をも愛します。」とあります。一見するとよく分からない言葉ですが、「イエスを信じる人」というのはイエスの教えを含めて受け入れる人を指すものです。その教えは、「全ての人が神によって愛され、招かれている」ということを信じることです。だからこそ、わたし達は自分たちの交わりだけでなく、他者との交わりの中にこそ神様の働きかけを見出し、気づきが与えられるのです。イエスを信じること、信仰を持つということは、この世界の全てが神様によって造られ、全てが神によって愛され、招かれていると信じること。そう思った時、いかに違う意見を持つ他者であれ、その正義を押し付けられそうになっても、わたし達はそのイエスへの信仰によってそれらの世俗的なあり方に打ち勝ち、イエスや神の示す愛のある交わりのために歩む出すことができるのです。「世に打ち勝つ」とは、誰かを打ち負かすことではなく、イエスを信じ、イエスの言葉を信じることで隣人を愛することで「どうやって他者と共に生きていけるのかを考え、そのことに心を向けることができるか。」を中心に歩むことです。

 わたし達の信仰は、どのようなものでしょうか。誰かと共に生きることがこれほど難しいものであるのかと、愕然とした想いを抱くことも多くあります。しかし、毎年の平和聖日の日。わたし達は完璧ではなくとも、主の御言葉とこの礼拝を持って、「平和」を思い起こし、強く求め、祈りを合わせることによって、「共に生きること」へ立ち返って歩んでいく。そして日々の出会いと交わりの中で、神のしるしや御手の働きを通して、平和と協働と愛とを見出していくのです。

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