7/28 「主の聖餐」  三浦 遙   聖句:1コリ11:23-29

 キリスト教の教会にとって食卓を囲むことはとても重要な事です。ただ美味しい食事を食べるということはもちろん、その食卓を囲む中での交わりが共同体として必要だったからです。しかしそれだけではなく、その食卓はイエス・キリストとその十字架を思い起こすものでもあるのです。

 今回の箇所では使徒パウロが主の晩餐について話をしていました。前半ではイエスと弟子達の最後の晩餐での様子を細かく説明しています。イエスは最後の晩餐でパンとぶどう酒を弟子達と分けられ、全ての人のために自分自身が死ぬこと、その死を通して新しい契約が示されて、人と神とは新たに手を取り合って歩むことが出来ること、そしてそのことを食事の時に思い起こすようにと伝えたのでした。パウロにとってもこの言葉は重要なものであり、強い想いを持って書き記していました。

 しかし、注目したいのはその後の言葉で、「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、杯を飲む者は罪を犯す」とありました。主の晩餐にふさわしくない者とは一体誰のことでしょうか。色々な解釈がありますが、この言葉の背景にあったのはコリントの教会における問題です。コリントという街は商業の盛んな場所でした。そんなコリントの教会では貧富の差が大きくあったのだと言われます。パウロはその食卓は本当の意味で主の食卓を思い起こすものであるかと問うているのです。先週の躓きの言葉も同様に、弱められている人、追いやられている人こそ招かれるはずの主の食卓が、特権を持つ富裕階級の人々の居心地の良いだけのものになってはいないか。自分達だけが満足するものになってはいないかと厳しく問いかけるのでした。

 それは今のわたし達にとっても同様です。主の食卓は全ての人に開かれたもので、教会の中心とも言えるものです。礼拝も食卓も、その主の交わりという大切なものがありますが、それを自分達だけのものにしてはいないか。もしそうであるならば、それはイエスや神の御心に適うものでは無いのだと思わされます。今一度、わたし達自身の交わりを見つめ、主の食卓に、その聖餐に相応しい交わりを成していくことが出来ますように。何より、感謝を持って食卓を囲むことが出来ますようにと祈ります。

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