7/7 「公の言葉」  三浦 遙   聖句:使徒24:10-21

 キリストの福音を述べ伝える宣教の業を担っていた使徒達。しかし、その働きの中で様々な迫害を受けていきました。それは、目に見えての暴力的なものもありましたが、多くは告発と裁判という圧政的な方法でなされています。使徒パウロはユダヤ教の指導者達とローマ帝国の総督によって裁判にかけられます。罪状としては異端の教えを語り、群衆を扇動したことでローマの平和を乱した罪が建前で、ユダヤ人指導者としては「自分たちの教えを冒涜した」ことで罪に問われます。

 パウロが冒涜したというのは、簡単に言えば「復活」の事柄において、ユダヤ人指導者達は「正しい人のみが復活できる」と考えており、「正しい人」というのは、律法を守るユダヤ人のみを指すもので、とても限定的かつ利己的な教えであったわけですが、パウロはキリストの教えを通して、悔い改めて信仰を告白する人は誰でも救われると示していたのです。ローマの総督を含む厳しい裁判でしたが、今回の場面でパウロは「わたしは彼らが『分派』と呼んでいる道(キリスト教)を信じています。」とはっきり告げ、パウロの信仰が示すのでした。

 しかし注目したいのは16節の「神や人に対して良心を絶えず保つように努めている」という言葉です。パウロは決して自分が正しい人間であるとは言いません。ですが、努めているという自負のみでキリストの救いに招かれていると確信しているのです。それは、パウロのように正しく無い者であっても福音を述べ伝えることが出来るという宣教者としての姿を示しているのです。よく、信仰とは神と人との関係であると言われます。しかし、パウロは自身の信仰を公に、世界の人々に大きな声で宣言することが大切であると語ってきました。それは、自身の信仰を通してキリストの福音を述べ伝えるためであり、キリストの平和や愛は交わりの中でこそ示される者だと考えていたからでした。

 わたし達も、「正しさ」を持ち合わせていないけれど、それでもパウロがそうしたように、キリストの愛を公に大きな声で告白するような宣教を成すことができますようにと祈ります。

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