6/23 「神と和解」 三浦 遙 聖句:エフェ2:11-22
「人間はなぜ争うのか」という問いは今なお解明されない大きな疑問です。日常的なものから国同士の戦争など、世界から争いが絶えることはありませんでした。そのことについて聖書は、旧約聖書の楽園追放の時から人は「敵意」を持つようになったと説明しています。しかし、今回の箇所で著者である使徒パウロは「イエスによって敵意という隔ての壁が取り壊された」と示していました。
使徒達が宣教を開始した時、その相手というのはユダヤ人達はもちろん、神を知らない外国人達に対しても宣教を行っていました。しかし、ユダヤ人達にとっても、当時のキリスト教徒にとっても、神様の恵みはこれまで共に歩んできたわたし達だけのものであって、全く関係のない外国の人々のものではないと思う人が多くいたのです。まさにキリストの福音が示されてもなお、その中にも「敵意」があったのでした。
しかしパウロはイエスがその身を持って「敵意」という隔ての壁を取り払ったことで、わたし達は何の分け目もなく手を取り合って歩むことが出来るのだと示すのでした。それが「二つのものを一つにする」主による平和であるのだと。その隔たりの無い愛のある交わりは、神様が約束された主の神殿のようだとパウロは語ります。教会という共同体は神の家族であり、共に生きる一つの体である。その土台はユダヤ人達が受け継いできた預言者や使徒達の働きによる強固な土台であり、今、その上にキリストを信じるもの達が目には見えないけれども主を賛美することのできる愛の交わりを形作っているのだと。その中心であり、要となるのがイエス・キリストであると力強く示すのです。
わたし達も目に見えるのは小さな教会ですが、その交わりは国や言語、文化、何より「敵意」という隔たりを超えて形作られる「神の家族」「主の神殿」としての交わりに加えられているのです。今一度、主の恵みに感謝しつつ、世界から「敵意」が拭い去られ、隔たりを超えて、互いに支え合い、愛し合う交わりを願って、祈りを合わせていくことが出来ますようにと祈ります。
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