5/19 「ペンテコステ」  三浦 遙   聖句:使徒2:1-13

 ペンテコステは教会の誕生日とも言われます。それは、この聖霊降臨の出来事からイエスの福音が世界中に語られ、広まっていったからです。聖霊降臨の出来事は、言い換えれば水による洗礼ではなく、霊による洗礼を授けられたとも言われます。イエスによって約束された霊による洗礼を受けた弟子達の様子が今回の箇所に描かれています。

 聖霊はよく「風」と表現されます。今回の箇所でも突風が吹いたかのような轟音が起こり、その後に「舌のような炎のようなものが弟子達一人ひとり上に留まった」とありました。聖霊が降る時、風が強く吹き付けるかのような衝撃があったのです。また、特徴的なのは、「舌のような」形をしていた聖霊によって、様々な地域の言語で使徒たちが語り出すという様子です。世界に派遣される使徒たちが多言語話者となったという姿はあまりにも不思議なものです。しかし、旧約聖書の物語を思い起こすと、元々この世界は同じ言語を用いていましたが、人間の高慢さによって言葉がバラバラにされてしまいました。この多言語というものは知恵を与えられたというより、様々な隔たりを超えて、元の言語、人々が協力して神を賛美する当時の、また理想の交わりへと立ち返っていく姿でもあるのです。

 この箇所を読むとき、この物語のように、わたし達にもこれくらい分かりやすく「しるし」や霊が与えられればと思ったりします。しかし、そうではないのです。当時の周囲の人々の中で「この人たちはガリラヤ人ではないか」と言う人がいる。それは、元々使徒達を知っていた人の発言でした。そのことを知った人々はこのしるしを「酔った人」と嘲ります。わたし達はどうでしょうか。日々の歩みの中で起こることを「おかしなこと」として流してはいないでしょうか。聖霊はまさに風のように、「常にあってわたし達を生かすもの」です。当たり前の中から見出すのは難しいですが、神様のしるしはそんな「当たり前」の中にある。今の教会があることに感謝し、日々の生活が守られていることに感謝しつつ、ペンテコステの出来事から示される豊かな導きと愛とに目を向けていきましょう。神様から与えられる当たり前で有り難い導きを覚えて、歩んでいきたいと願います。

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