4/7 「信じるものに」  三浦 遙   聖句:ヨハネ20:24-31

 イースターを迎えたわたし達。しかし、その喜びはすぐに全ての人に知らされて行ったわけではありません。マグダラのマリア、弟子達と少しずつ伝わり信じられていった復活の喜びでしたが、そのことを信じられない人もいます。主の復活に立ち会うことのできなかったトマスは、心中複雑な想いもあってか、実際にこの目で見て触れなければ信じないと拒絶を示していました。そこで、弟子達がイエスにあった時と同じ家の中に籠っていると、イエスが現れトマスに声を掛けます。主を見、その傷に触れたトマスは「わたしの主、わたしの神」とイエスを讃え、信じる者となりました。

 この一連の出来事はすでに他の弟子達によって描かれたものです。なぜ繰り返し描かれるのでしょうか。それは後の「本書の目的」に記されるように、このイエスの物語が「あなた方」が信じるためであるという言葉に集約されます。このトマスは後にイエスの物語を読む、「わたし達」であり、実際にイエスに会うことの叶わない未来の弟子達に向けて投げかけられている言葉であるのです。弟子達は復活のイエスに会い、その傷に触れ、明確に十字架の痛みと神様の深い愛とを実感しました。ですが、後にこの物語と触れ合うわたし達も、イエスを見ずとも、信じる者となるように招かれていくのです。それは、イエスを信じ、イエスの何より命を受けるため。

 これらのことを通して、今のわたし達もイエスを「わたしの主、わたしの神」と讃え、主に導かれ、委ね、守られて歩む者とされていくし、主の弟子として「わたしは主を見た」と福音の喜びを告げ知らせる者として遣わされていく。その喜びと希望を思い起こしつつ歩んでいきたいと願います。

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