3/31 イースター「わたしは主を見た」  三浦 遙   聖句:ヨハネ20:11-23

 イースターおめでとうございます。このイースターは全ての人の罪と痛みとを引き受けて十字架に掛けられたイエスが復活されたことを記念する日です。最初に復活のイエスと出会ったマグダラのマリアは、「わたしは主を見た」と言ってその出来事を弟子達に伝えます。しかし弟子達は家の中に引き篭り、鍵をかけていました。それは、イエスが死に、イエスがこれまで行ってきた生き方ができないと強く感じていたからです。

 イエスは、当時の社会の「当たり前」から大きく逸脱した人物でした。長男でありながら家業を継がず、男でありながら女性達と深く関わり、ユダヤ人信仰者でありながら罪人とされる人々と過ごされた。弟子達もついこの間まではイエスと共にそのような逸脱した生き方をしてきましたが、イエスを失った時、同じようには歩めなかったし、もっといえばイエスと出会う前のような生活をしたいと願っていたのではないでしょうか。それはマジョリティ側の、逸脱ではない生き方であり、男らしく女性を軽んじ、ユダヤ人らしく罪人を遠ざける生き方です。

 そんな弟子達の真ん中に復活のイエスが現れ、「あなた方に平和があるように」と挨拶をしています。この時、イエスは自身が十字架で負った手と脇腹の傷を示していました。それは自身が十字架で死んだイエスであることを示すものだけではありません。しかし、その傷を示すことで「お前達がこの傷をつけた加害者だ」と責めるものでもないのです。この傷を示された弟子は「イエスが何故、十字架につけられたのか。」さらには「その傷は一体誰の、何の傷であったのか」を思い起こしていく。それは社会から追いやられた人々、女性や病人、罪人とされた人々を含めた全ての人の痛みを身に引き受けた傷であり、生前のイエスと共に逸脱の道を歩んだ弟子達が受けた傷であり、家の中に隠れる「恐怖や不安、絶望」を感じる今の弟子達の痛みであったのです。

 イエスは許す、許されるという関係ではなく、傷つけた者であると当時に、イエスと一緒に傷ついた者として弟子達に声をかけるのです。弟子達はこの傷を見て、イエスと共に歩んだ逸脱の道、傷つく人々と共に生きる道を思い起こし、イエスが死者の中から甦り、墓を破って出てこられたように、弟子達も家の戸という殻を真ん中に立たれたイエスによって押し出されることで破り、外に出ていくのです。主の弟子達はこの時、「わたしは主を見た」と声高らかに告白しながら、歩んでいった。「あなたと一緒にいる」という平和という言葉によって、わたし達も、殻を破り、共にある平和のために歩み出していくことが出来ますように。

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