3/24 「茨と紫」  三浦 遙   聖句:ヨハネ19:1-16

 受難節の際、教会では紫色のものが用いられていきます。それは今回の箇所にあるように、イエスが受けられた苦しみの中に「紫色の服」を着せられる様子が描かれているからです。元々、紫色というものは大変高価なものでありました。染めるのが難しいというより、染料となる材料が貴重なものであったからです。本来ならば皇帝や王族のみがこの紫色の服を身に纏う事ができたのですが、ここでのイエスは「高貴さ」ではなく「侮辱」としてこの紫の服を着せられていきます。物語にあるように、イエスは「自称神の子」として罪に問われ、十字架という死刑を受けます。その十字架には罪状として「ユダヤ人の王」という言葉が掲げられました。また、王冠の代わりに茨の冠を被せられます。ご想像の通り、茨には棘がありますので、頭に刺さり、血が出るものです。茨の冠と紫の服、これらがイエスの十字架上での受難を強く象徴するものであり、侮辱と人々の不信仰を表すものなのです。

 今回の物語では、そのような侮辱を受けるイエスと向き合うピラトの姿が描かれています。律法学者やユダヤ教徒らは、イエスがこれまでの聖書の教えを軽んじ、異なる教えを説き、多くの人々から支持を得ていたことに憤り、死刑を求めています。しかし、実際に死刑とするためにはローマ帝国の法律に則ってのみ実刑がなされるため、この地域の総督であったピラトの判決と許可が必要不可欠であったのです。しかし、ピラトは戸惑います。イエスに罪が無かったからです。ここでピラトが不問とすれば、イエスは十字架にかけられる事はなかった。ですが、群衆たちの声「殺せ、十字架につけろ!」という言葉と、ローマ皇帝への叛逆という言い分とを受け、十字架刑の判決を下してしまうのです。

 注目したいのは、群衆の「私たちには皇帝の他に王はいない」という言葉。世俗的な価値観にだけ目を向け、信仰を忘れ去っている人々から出る言葉は、あまりにも非情で冷徹で、怒りに満ちた人の言葉の鋭さを感じるものです。イエスはこれらの言葉をどのように聞いていたのか。世にある正しさによって否定され、その身を消されている弱さをこのイエスは体現している。わたし達はその場にはいなかったけれども、この物語を読むとき、今のわたし達はどこにからこのイエスを見ているのかと問われている。痛みと孤独を示す、この荊と紫を見つめるとき、イエスが受けられた苦しみにしっかりと向き合い、その先に示される希望と愛とを受け止めていくことが出来ればと願います。

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