3/10 「香りに溢れて」 三浦 遙 聖句:ヨハネ12:1-8
イエスの受難の物語を読む時、いつも疑問に思うのはイエスがどのように自分の死や運命を受け止めていたのかということです。イエスが神の子だから死を恐れなかったというわけではなく、わたし達と同じく当たり前のように死を恐れていました。それはゲツセマネの祈りにおいても描かれています。しかし問題は、その死の先についてです。イエスは死後の復活を信じていましたが、それがどのように成されるかは知りませんでした。もっといえば、死後の埋葬方法や扱いについてはおよそ碌なものではないと思っていたはずです。しかし、そんなイエスの不安に寄り添ったのが今回の箇所に登場するベタニアのマリアでした。
今回の箇所はイエスによって回復されたラザロを含めた食事会の場面です。マルタ、マリアは弟のラザロの回復を喜び、その宴会といわれます。そんな中マリアが非常に高価な香油を持ち出し、イエスの足に塗り、髪の毛で拭うのでした。周囲の人々は驚き、加えて会計をしていた弟子のユダが「施しに用いるべきであった」と非難しています。ですが、イエスはそれらの批判を嗜めるのでした。
このマリアの行いは一体どのような意味があったのか。解釈としては、イエスが救い主(油を注がれた者)であると表明するため、またイエスの言葉にあるように死者の埋葬の際に施される油塗りであったとされています。注目したいのは、マリアが自身の髪の毛で油を拭ったこと。これはあまり注目されないのですが、おそらくこの髪の毛は旧約聖書の言葉にある「献身のしるし」と関係があるのだと思われます。神に対して誓いを立てた人はそのしるしとして髪を大切にするとされます。マリアは弟のラザロの回復という喜びだけでなく、イエスが救い主であるという信仰告白だけでなく、イエスがこれから受けうるであろう苦しみと孤独に心を寄せ、そのイエスのために全てを捧げるという誓いをこの行いにおいて示しているのです。特に、高価な香油とイエスとを天秤に掛け、「勿体無い」と非難する弟子とは違い、命の価値は金銭と比べ物にならないほど尊いものであることも表明しているのです。
部屋に香油の香りが満ちていただけでなく、マリアの溢れんばかりの想いを込めて成された油注ぎの出来事は、わたし達の心にも豊かな香りが広がっていくものです。受難節の時、わたし達もマリアのように、献身のしるしを示しつつ、何よりもイエスの痛みに心を向け、寄り添い、感謝を持って歩んでいくことができますように。
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