3/3 「メシアとイエス」 三浦 遙 聖句:ヨハネ7:25-31
受難節の時を歩むわたし達。イエスは様々な苦難を受けつつ、十字架へ向かっていきます。しかし、その道中には少なからずイエスを慕い、またイエスに期待を寄せていた人々もいたことが示されています。それは弟子達だけでなく、群衆達の中にもイエスに目を向ける人々がいたのです。イエスが宣教を行う中で、イエスについてのもっぱらの疑問は「この人は何者か」ということでした。奇跡を行い、良い御言葉を語るイエスは謎に満ちています。
今回の箇所において、イエスがメシア(救い主)ではないかという疑問が示されていました。しかし、救い主と言われてもその実情は思い描いていたものと遠く離れたものであったのです。イエスはユダヤ人達によって殺されようとしている危険人物という噂が流れていました。また、ナザレから来たということも知られています。本当に救い主であるならば、なぜ天から降ってこなかったのか。もっと言えば何故もっと分かりやすくご自身を示されないのかという疑問。また神を信じる信者の代表であるはずのユダヤ人達から拒絶されているのも、当時の群衆達にとっては不安に思うことです。手放しにイエスを信じられないという葛藤が描かれています。
しかし、イエスはそれらの疑念を見つめ、それらに応答するように声をかけます。「あなた方はわたしを知っている。しかし、わたしを使わされた方を知らない。」この言葉はユダヤ人にとって屈辱的な言葉です。神に支えてきたユダヤ人達に「お前達は神を知らない」と言うのですから。しかし、ここでのイエスは言い換えればイエスを通して神を知ることが出来ると招いているのです。ユダヤ人だけでなく、全ての人に向けて、迫害の最中であっても神の御心を示そうとするイエスの姿があります。これらの姿を見た群衆達の中には「メシアよりも偉大な方」とイエスを称していました。この人々はイエスの出身や他者からの評価を度返しにて、ただただイエスの栄光に目を向けている。イエスがメシアであろうがなかろうが、今目の前にいて御業を示すイエスに心を向けるのです。
わたし達にとって救い主はイエスしかいません。しかし、イエスは今現在も、様々な姿でわたし達に寄り添い、御心を示されています。それは、最も貧しい人々の中にイエスが共におられると言うことでもあります。わたし達が見つめるのは聖書に書かれたメシアであるイエスではなく、わたし達の日々の歩みにおいて示されるしるしや御心であり、その中に示されるイエスにこそ心を向けていくこと。そのことを思い起こしつつレントの時を歩んでいきたいと願います。
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