2/25 「世に光」 三浦 遙 聖句:ヨハネ9:1-12
聖書の時代は今から2000年以上も前の時代です。それは今のわたし達よりもまだまだ文明も進んでいない時代でもありました。遠い昔のまだ文明の発達が進んでいない時代においては、様々な事柄が解明されておらず、様々な事象の原因は目に見えない神や悪霊などによって引き起こされると信じられていたといいます。その一つとして病気はその人が神に対して罪を犯したことで与えられる罰とされていました。
今回の箇所でも目の見えない人をイエスが癒されますが、周囲の「この人の病気は誰の罪か」という問いに答えていました。ここでは、病いの原因を尋ねるという意味で質問しただけではありません。この問いは、そのよく分からない病を癒すイエスの奇跡の意味や本質について尋ねているのです。病を癒せるということは、その原因を知っていて、尚且つその原因を解決できるということ。イエスの奇跡とは一体何なのかと問うているのです。その問いにイエスは「本人の罪によるものではなく、神の業がこの人に現れるためである。」と答えていました。神が嫌っているから、怒っているから病いに掛けられるわけではなく、全ての物事を通して主なる神のしるしが示されている。イエスはそのしるしが人々にハッキリと示されるために奇跡を行い、語りかけるのだと伝えるのでした。
そのことは後の言葉においても示されていて、「神の業を日のある内に行わなければならない。誰も働くことの出来ない夜が来る。」と言います。これは、イエス自身が世に遣わされている間は神のしるしが示されていくが、イエスが十字架に掛けられる時、そのしるしが見えないような夜が来るという意味でも示されています。しかし、夜というのは永遠に続くものではありません。日の差す昼も同じです。神の業もしるしも、見える時と見えない時がある。しかし、イエスという光がある内は神の業も豊かに示されていくのです。
それだけではなく、イエスは世の光となれと弟子達に伝えていました。それはイエスが神の子だから神の業が豊かに示されていくのではなく、わたし達ひとり一人が世の光となって神の業を示していくことが出来るという意味でもあります。目の見えない人の目に光が示されたこの奇跡は、全ての人にイエスという光がすでに示されているということと、同じようにあなた方も光となって人々を照らすことが出来るというメッセージが込められている。今のわたし達も世の光となり、世に神様の恵みという光を示していくことが出来ますように。
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